ダビデ王

    ダビデ

 

 

   目 次

第一章    王制の始まり
  一 王を求めたイスラエルの民
  二 サウル王の初陣

 第二章 ダビデ油注がれる
 一 サウルは神から退けられる
 二 ゴリアテと戦ったダビデ

第三章 サウル王の妬み
  一 ダビデヨナタンの友情
  二 逃亡生活の始まり

第四章    サウルの追跡
  一 荒野をさまようダビデ
  二「神が油注がれた者をわたしは殺さない」
  三 アビガイルとの出会い
  四 再びサウルを容赦する

第五章    ダビデは王となる
  一 サウルとヨナタン――ギルボア山で戦死
 二 哀歌「弓」
 三イシ・ポシュトとアブネルの死
 四 ナタンの預言
 五 ダビデの戦い

第六章    罪
 一 ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫
 二 息子アブサロムの反逆
 三 アブサロムの死
  四 再びエルサレムへ帰還

第七章    ダビデの最期
 一 王位継承の争い
  二 回顧
  三 遺言

終 章 ダビデとメシア
  一 ダビデの役割
  二 預言者が立てられる
  三 系図
  四 永遠の王国

 

 

 

 

 

 
 ダビデ
 


序章 羊飼いの少年


 
   一 石投器の名手

ユダのベツレヘムから遠くない高原に、夜の凛とした冷気が流れていた。空には満天の星が煌いている。その星空をじっと見上げている一人の少年がいた。羊飼いの少年ダビデであった。彼はその手に自分で作った小さな竪琴を持っていた。ひとたびその弦の上に指を置くと、不思議なほどに妙なる音色が出るのだった。その音色に合わせて歌う即興の詩。少年の澄み切った声が夜のしじまに染み入るように流れて行った。

ああ、神よ
わたしの神よ
この美しい山波と光る海
あなたの御業は
わたしの歓喜
わたしの力
わたしの知恵です
日は日に継いで、
夜は夜に継いで
地の果てまでも
命のすべてが
あなたの御業を讃えます

だれが聞くわけでもないその美しい歌声が、闇に包まれた山間の谷を渡っていく。このつかのまの静けさのみが、昼間の厳しい仕事の疲れを癒してくれるのだった。その日のことだった。ふと気がつくと、群れを離れてしまった一頭の子羊がライオンに狙われていた。ライオンの血走った目が、今にも飛び掛ろうとしていたときに、ダビデは気づいたのだった。
「タラ!」
一声叫ぶと、ダビデは、目にも止まらぬ速さで、肩にかかっている皮袋から小石と石投げ器を取り出すと、目にも止まらぬ速さで、ライオン目がけて石を飛ばした。距離は概ね七〇メートル位だろうか。小石は空中を飛んで行き、見事、ライオンの右目に命中した。不意打ちをくらったライオンはもんどりうって一回転し、慌てて森の中に姿を消して行ったのである。
「だいじょうぶか?」
 ダビデは子羊のもとに駆け寄って行き、脅えのために動けなくなっている子羊を優しく抱き上げた。子羊は、ダビデの懐のなかで歓びの声をあげた。羊は、自分のことをほんとうに気遣ってくれる羊飼いのことをよく知っているのだ。他の羊飼いの声を聞いては見向きもしないが、自分の羊飼いの声を聞くと、どんなに遠くにいても声のするほうへまっしぐらに走って来るのだ。このように、羊飼いと羊とは、切っても切れない信頼関係で結ばれているのである。
 少年ダビデは、その日一日のことを振り返ってはさまざまな思いにふけるのだった。彼は羊飼いの仕事が好きだった。羊を猛獣たちから守るために命を張ることもあったが、勇敢な彼は獣と戦う自信があり、何よりも救出されたときの羊たちのうれしそうな姿を見るのが好きだった。それで彼は成人しても自分も父エッサイのように羊飼いになるのだと思っていた。その準備はできている。まだ十代の半ばであるが、もう何百匹もの羊を連れて何ヶ月も家を離れ、牧草地から牧草地を移動しているのである。そして夜には、得意の竪琴を弾きながら、さまざまなことを黙想するのだった。
星空を仰ぎながら、少年ダビデ思うのは、先祖アブラムのことだった。アブラムも星空を仰ぎながら、神の言葉を聞いたからである。その声は、アブラムの子孫が一つの国民となり、彼ら民に、すなわちいまイスラエルの民が住んでいるこのカナンの地を与えると約束されたのであった。それはその約束が実現する四百年も前のことだった。しかし彼はその神の言葉を信じて、その道を真っ直ぐに歩んで行ったのだった。彼は信仰を、完璧な行動で示した人だった…。アブラムとはどういう人だったのだろうか? ともすればダビデの思いはそこへいってしまうのだった。


  二 ダビデの先祖アブラム


それにしても、アブラムとダビデ、それはどういう関係にあるのだろうか。「聖書」によれば、神は、最初の人間を造って地上に置かれた。人間が獣たちを支配し、地上のあらゆる事柄を管理させるためだった。その人間の始祖はアダムとエバである。そこから数えてノアまでが十代、ノアからアブラムまでが十代である。「ノアの日」には、ネフィリム(堕落して地上に降りてきた天使と人間の間に生まれた混血児)が地上に存在するようになり、彼らはその身体、力において普通の人間をはるかにしのいでいたが、それゆえに彼らはしたい放題の悪を行なうようになった。それを見られた神は、彼らを地上から一掃することを決められ、大洪水で彼らを滅ぼされた。それから三五〇年余の西暦前二〇一八年頃にアブラムは生まれた。父親テラが一三〇歳の時の子どもであった。(創世記一一:三二 一二:四)アブラムはカルデアのウル(チグリス川とユーフラテス川の合流点に近いシナルの地の大都市。バベルの塔で名高いバビロンの南東二四〇キロメートルの所)という都市で豊かに暮らしていた。しかしそのウルにいるとき、突然、神エホバがアブラムに現れて言ったのである。
「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名前を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記一二:一―三)
ウルは、月神シンの偶像崇拝が盛んであった。アブラムの父祖セムやノアのように神エホバを崇拝する人はほとんどいなかったのである。しかしアブラムは、父祖と同じように、神エホバを堅く信じて育っていた。それで神がアブラムに、生まれ故郷を離れて異国の地へ行くようにと言われた時、彼は素直に神の命令に服して、豊かなウルの地での生活を捨てて、異国の地へと旅立った。妻サラ、甥のロト(アブラムの兄弟ハランの息子)、従僕や女奴隷、羊や牛を連れての長い旅路だった。年老いた父親テラも同行した。
まず、アブラムたちは、カルデアのウルからメソポタミアのユーフラテス川沿いを歩いてハラン(ウルからハランまで約九六〇キロの道のり)の地まで行った。そこで父親テラは二百五歳で亡くなったのでその地に葬った。それから更に南下し、塩の海の西側のカナンの地(ハランからカナンの地まで六九〇キロメートル)まで進んだ。合わせて一六五〇キロメートルの徒歩の旅だった。そしてカナンの地に着いたのは、紀元前一九四三年頃のことである。
そんなある日のこと、エホバの言葉が幻のなかでアブラムに臨んで言った。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは非常に大きいものとなる」
 アブラムは答えて言った。
「わたしの神エホバよ、わたしに何を与えてくださるのでしょうか。わたしには子どもがいません。あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでした。ですから、わたしの家を継ぐのは、わたしの僕、ダマスコのエリエゼルです」
 神は言われた。
「アブラムよ、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」
 さらにこう言われた。
「アブラム、天幕から出て空を仰いでみよ」
 アブラムはそのようにした。
「星を数えることができるか。できるものなら数えてみるがよい。あなたの子孫はあの星のように多くなる」
 アブラムはその言葉を信じた。神はそのことを義とみなされて言われた。
「アブラムよ、わたしがあなたをカルデアのウルから導き出したのである。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」
「わたしの神、主よ、わたしがこの土地を継ぐことを、何によって知ることができるでしょうか」
 神エホバは言われた。
「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と山鳩と、鳩の雛を持って来るように」
それでアブラムはそれを持って来て、動物を真二つに切り裂き、互いを向かい合わせに置いた。鳥は切り裂かなかった。陽が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、濃い暗黒が彼を包んで、神エホバが言われた。
「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(創世記一五:一三—一六)
 アモリ人とは、カナンの地に住んでいた人たちのことである。そして陽が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎて行った。それはアブラムに対する神の証だった。そして神エホバはアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテス川に至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルカシ人、エブス人の土地を与える。」(創世記一五:一八)
けれどもそのときには、アブラムの妻サライには子どもがなかった。それでサライは、自分の女奴隷であったエジプ人のハガルをアブラムに差し出し、アブラムはハガルによって長子イシュマエル(ベドウィンの先祖、アラブ民族の先祖となり、大いなる国民となった)を得ていた。そしてアブラムが九九歳になったとき、神はもう一度現れて言われたのであった。
「『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に契約を立て、あなたをますます増やすであろう。』アブラムはひれ伏した。神は更に語りかけてこう言われた。『これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハム(群衆の父)と名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたを益々繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしはあなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そしてあなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。』
神はまた、アブラハムに言われた。
『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい。あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたに続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、あなたとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫ではない者も、皆生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによってわたしの契約は、あなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。』
 神はアブラハムに言われた。
『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラ(王妃という意味)と呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』
 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラに子どもが産めるだろうか。』アブラハムは神に言った。『どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように』
神は言われた。
『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子どもを殖やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたに産むイサクとの間に立てる。』
神はこう語り終えられると、アブラハムを離れて昇って行かれた。」(創世記一七:一—二二)
それでアブラハムはその日のうちに、アブラハムの家の者全員、奴隷たちも含めてすべての者に割礼を施したのだった。アブラハムは九十九歳、息子イシュマエルは十三歳であった。

その後、エホバは約束されたその日、再びヘブロンのマムレの樫の木のところに現れた。(御使いを通しての意)真昼の暑い時刻であった。アブラハムが天幕の入口のところで目を上げて見ると、向こうから三人の旅人(肉に化身した天使)がやって来るのが見えた。アブラハムは走り出て、地に身をかがめて言った。
「どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。すぐに冷たい水をお持ちします。足もお洗い致します。どうか木陰で一休みなさってください。その間に何か召し上がる物を作らせますから」
 そのころ、カナンの地では、見知らぬ旅人をもてなすのが習慣であった。それでアブラハムは、奴隷たちに命じて、上等の小麦粉をこねてパンをつくり、やわらく美味しそうな子牛を屠って、急いでご馳走を作らせた。そして旅人たちは木陰で食事を楽しんだ。そのあいだ中、アブラハムは側に立って給仕をしていた。すると旅人の一人が言った。
「あなたの妻サラはどこにいるのか」
「天幕の中でございます」
 すると彼は言った。
「来年の今ごろ、わたしは必ずここに来る。そのときあなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」
 天幕の入口の陰に立ってそれを聞いていたサラは、ひそかに笑った。<わたしはもう月のものもないし、わたしの主も年老いている。どうしてそんなことがあるだろうか……>と。その心を知った旅人はサラに言った。
「あなたはなぜ笑ったのか。なぜ、年老いたわたしに子どもは生まれない、と思ったのか。神に不可能はないのだ」
 それで、サラは恐れた。
「わたしは笑っていません」
 しかし旅人は言った。
「いや、あなたは確かに笑った」
「はい…」
 それから御使いたちは、まもなく悪事の極みに達してソドムトゴモラを検分するために出て行った。アブラハムもその後に従って行った。そのとき神は再び誓われた。
アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創世記一八:一八)(後にアブラハムの胤として生まれるイエス・キリストによって諸国民が祝福されることの意)
 それから歳月が過ぎ、旅人が予言したとおり、アブラハムが百歳、サラが九十歳のとき、男の子が誕生した。イサク(笑い)と名付けられた。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者はみなわたしと笑いを共にしてくれるでしょう。」(創世記二一:六)と、サラが言ったからである。
 
星空を見上げながらダビデは思うのだった。もしもイサク誕生の奇跡がなかったなら、その子ヤコブが誕生して、十二人の息子たちをもち、その息子たちがイスラエル十二部族の祖となり、その子孫たちがイスラエルの国民となることはできなかった。もちろんダビデ自身も(ダビデアブラハムから数えて一四代目)この世に存在することはなかった。そのことを思うと本当に不思議だった。アブラハムとは何者だったのか? 神はなぜイスラエル国民をつくられたのか? そしてダビデの祖父オベデが話してくれたことも思い出された。オベデは言ったのである。
ダビデ、信仰は心ではたらかせ、行動で表わすものだ。アブラハムカルデアのウルを出て、カナンの地へ導かれ、そこで寄留者として百年の間天幕生活をしたのは、まさしく神エホバに対する信仰の表明そのものだった」
「はい」
「しかし、アブラハムの信仰の表明はそれだけではなかった。神は、百歳と九十歳の夫婦の間に授けられたたった一人の息子イサクが立派な若者に成長したとき、もう一度アブラハムの信仰を試されたのだ」
「はい」
「神は言われた。『アブラハムよ、あなたの息子イサクを連れてモリヤの地へ行きなさい。そこでわたしが命じる一つの山に登り、彼を焼燔の捧げものとしなさい』とね」
その話を聞くたびにダビデは身震いするのだった。
「おじいさま、アブラハムはどうしたのですか」
何度聞いても、同じことを尋ねずにはいられなかった。
「そうだね。アブラハムは、正妻サラとの間に生まれたった一人の息子イサクを通して人類は祝福されると言われていたので、そのイサクを犠牲にして捧げるようにと命じられたときは本当にびっくりしたことだろうね」
「はい」
「それがどんな要求であっても神の言われることだ。そもそもイサクを与えてくださったのも神エホバなのだから、取り去られる権限もある。アブラハムはそれに従うつもりだった」
「そうなんですね」
 ダビデは祖父オベテの手を強く握った。温かくて大きな手だった。祖父は言った。
アブラハムは、イサクと従者二人を連れて神が指定された場所に向かったのだ。途中で従者たちを残して、焼燔の捧げ物のための薪をイサクに背負わせ、自分は屠殺用の短刀を持って山に登って行ったのだ」
「イサクは何も知らなかったのですか」
「イサクはこう言ったのだ。『父上、ここに火と薪はありますが、焼燔の捧げ物のための子羊がいません。子羊はどこにいるのですか』」
アブラハムは何と言ったのですか」
「『わたしの子よ、子羊は神が備えてくださる』と言った」
アブラハムはどんなにか苦しかったでしょうね」
「もちろんだ。約束を受け継ぐ胤として、ようやく授かった息子だった。でも、アブラハムは神の命じられるままに祭壇を築き、その上に薪を並べて、最後にこう言ったのだ。『わが子イサクよ、焼燔の捧げ物はお前なのだ……』」
「イサクは何と言ったの?」
「黙って頷いた」
「それからどうしたの?」
アブラハムはイサクを縛って薪の上にのせた」
「イサクは逃げなかったのですか」
「そうしようと思えば簡単にできることだった。イサクは屈強な若者に育っていたからね。でもイサクはそうはしなかった。彼も神エホバを堅く信じており、父親の信仰にしたがうつもりだった」
ダビデは大きなため息をついた。
「それからアブラハムは、『わが子、イサクよ…』と言うと、短刀を抜いて、イサクを屠ろうとしたのだ」
「ほんとうに?」
 ダビデはさらに強く祖父の手を握った。
「そう、でもその時、神は御使いを通して、天から呼びかけられた。『アブラハムアブラハム』。彼が『はい、アブラハムはここにおります』と答えると、神は言われた。『その子に手を下してはならない。あなたが神を畏れる者であることはよく分かった。あなたは自分の独り子をさえ捧げることを惜しまなかった。だからわたしも必ずあなたを祝福する。あなたの胤を殖やして、天の星のように、海辺の真砂のようにする。そしてあなたの胤によって地上のすべての国民を祝福する。あなたがわたしの声に従ったからである。』とね」
「おじいさま、アブラハムはどんなにか嬉しかったことでしょうね」
「そうだね、抱き合って泣いたことだろうよ」
 ダビデの目にも涙があった。
ダビデ、お前はそのイサクの子孫だ。祖父たちの信仰があったからこそお前は存在している。その信仰を決して無駄にしてはいけないよ。どんなことがあっても生きている神エホバを捨ててはいけない。アブラハムのような信仰の人になりなさい。そうすればお前もお前の子孫たちも必ず祝福される」
 祖父オベデは大きな手で頭を撫でてくれた。
「はい、おじいさま」
ダビデは、今でも祖父オベデの温かい手の感触を思い出すことができた。

  
三 勇敢なヨシュア


そして、少年ダビデの心を奮い立たせているのは、やはりヨシュア(エホバは救いの意)である。彼がモーセの後継者となり、エジプトから出てきたイスラエルの民を率いてカナンの地を征服した時の信仰に裏付けられた勇敢な戦いの有様は、すべての若者たちの心をゆさぶってきた。ヨシュアは、十二部族の一人エフライム人ヌンの子であった。モーセは、イスラエルの民を率いて、あの紅海を渡ってチンの荒野へと導いたが、「約束の地」であったカナンの地を踏むことはできなかった。彼はその荒野で百二十歳の命を終え、後の重大な使命をヨシュアに託したのだった。ダビデはその時のことを想像するだけで血が騒ぐのだった。
紀元前一四〇〇年代、いよいよ約束の地であるカナンの地を攻め取る時がきた。だが、そこにはすでに三十一人の王たちと、彼らの精鋭部隊がいたのである。これに対してイスラエルの民は、四十年のあいだ荒野をさまよっている時に生まれた人たちであり、戦うことに慣れていなかったため、カナン人を征服していくことは至難の業のように思えた。武器といえば、神から与えられた知恵と、それに対する信仰のみであった。けれど、神は確かにその盾となられた。いつでもイスラエル軍を援護された。そのなかでも、ダビデの心をとらえて離さないのは、アモリ人と戦っていたときのことである。神はイラエル軍のために、中天で太陽を止められたのである。イスラエルが戦いに勝利するにはもう少し太陽が留まっていてほしかった。そこでヨシュアは祈った。
「『日よ とどまれ ギブオンの上に
 月よ とどまれ アヤロンの谷に』
 日は とどまり
 月は動きをやめた 
民が 敵を打ち破るまで。」
とあるように、ヨシュアの祈りは聞き入れられ、太陽はまる一日、中天に留まっていたのである。神がこのような業を示されたことは、後にも先にもこの時だけであった。しかし、神は確かにイスラエルのために戦われたのである。(ヨシュア記一〇:一二―一四より)

※この点に関連する興味深い記事が「東京新聞」に掲載されたことがある。
アメリカのカーチス、エンジン会社の発表によると、同社のメリーランド州のグリーンベルトにある研究所の宇宙科学者たちが、コンピューターで過去数千年間の太陽、月、地球の位置を調査中、偶然、聖書の内容がただの空想ではなく、真実であることが証明された。計算中に突然コンピューターがストップしたので、データーを洗い直すと時間が一日分足りないことが判明、びっくりした。科学者がさんざん記録を調べた末、とうとう聖書の「ヨシュア記」(一〇:一二、一三)に、「神エホバがイスラエル人に加勢して、その敵を打ち破るまでおよそ一日だけ日と月の動きを止めた」とあるのを発見した。だが、当時に遡って計算すると、まだ一日には四〇分足りない。そこでもう一度聖書を調べると、「列王記下二〇:一一」というところに「エホバがイザヤの願いを聞き入れて、神の存在を証明するために、日時計の影を一〇度後戻りさせた」とあった。一〇度は時間にすると四〇分、これで聖書は真実の出来事と伝えていることが分かったのである。

ヨシュアは文字通り、神エホバに対する信仰をもって戦った。そしてついに約六年間をかけてカナンの地の三十一人の王を倒し、神がアブラハムに約束された地の大半を制圧したのである。そしてヨシュアは、神が与えられたその土地を、イサクの子ヤコブの息子たち十二人の部族の子孫に配分した。年長順に挙げると、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アセル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ(ヨセフの息子マナセとエフライムはヤコブの息子たちと対等に扱われ、ヨセフがルベンに代わって長子としての権利を受けたので、父ヤコブからの相続財産として二つの分を受けた)、ベニヤミンである。このようにして、アブラハムに約束されたことは何一つ違うことなく、アブラハムから四代目のイスラエル国民の世代に成就したのである。しかしカナンの地のすべてではなかった。その後も長い間、カナン人は残存しており、彼らは常にイスラエルの民を脅かして悩まし、最初のイスラエル王となったサウルから始まって、ダビデ王朝も絶えず彼らと戦わなければならなかった。しかしそれも神の御意志であった。それはいわば、しばしば神に背いたイスラエルの民に対する懲らしめのようなものであった。
そしてカナン制圧の指導者となって活躍したヨシュアにも死が迫っていた。その最期になってヨシュアは、イスラエル国民に深い愛と哀しみを抱いて、次のような告別の言葉を遺した。
「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らなければならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。あなたたちの神、主が約束された良いことがすべてあなたたちに実現したように、主はまたあらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地からあなたたちを滅ぼされる。もしあなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る。」(ヨシュア記二三:一四—一六)
後にこの預言は、まさしくイスラエルの民の上に成就した。こうしてヨシュアの波乱に富んだ人生は、百十歳で閉じられたのである。彼は自分が属するエフライム部族の領地となった都市ティムナト・セラハに葬られた。
ヨシュアの死後、イスラエル国家は「士師」の時代を迎え、そのような社会は三百三十年間続いたが、イスラエルの征服を免れた諸国があり、彼らは絶えずイスラエルの民を悩まし続けた。主なる戦いの地域は、ペリシテ人の全域、ゲシュル人の全土、エジプトの東境のシホルから、北はカナン人のものとみなされるエクロンの境までであり、そこには五人の領主が残っていたのである。そして、「士師」の時代が終わってから、イスラエルも諸国のように王制の時代を迎えたのである。
ダビデのこれらの思いは、星空の中を果てしなく駆け巡って行った。それでもダビデに気懸かりなことが一つあった。モーセヨシュアが残した遺言、イスラエルが神エホバを捨てるなら、この肥沃で乳と密の流れるカナンの地から、いつか吐き出されるということである。そんなことは考えられないと思うのであったが不安だった。イスラエル国民の歴史は、神が語られたアブラハム契約から始まって、エジプトでの奴隷状態の四百年間、そこから救い出されて紅海を渡ってカナンの地に来るまで、すべて神の奇跡の連続である。神がそのようにされた理由は、諸国民が神エホバのことを知るためであった。そのために選ばれた神の民が、本当に神を忘れ、捨てることなどあるだろうか? ダビデにはとても考えられないことだった。
満天の星空を仰ぎながら、あれこれと思い巡らしていると、夜露が降りて来るのも忘れているのであった。

 

第一章  王制の始まり

 

  一 王を求めたイスラエルの民

 

「士師」の時代とは、イスラエルの民以外の諸国民が経験したことのない完全なる神権社会であった。神によって油注がれた、つまり召命された士師が民を治め裁いていたのである。しかし主権者はあくまでも神エホバであった。こう記されている。「主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。」(士師記一:一六)その期間は三百三十年間であり、主なる士師の名前は十二人が記されている。最後の士師はあの有名な力持ちのサムソンであった。しかしこの特異な体制も終わろうとしていた。その後に預言者サムエル(神の名という意味)が登場し、民は彼に執拗に王を立てるようにと迫ったからである。
紀元前一一世紀、民の長老たちはサムエルのもとに来てこう言った。
「あなたも高齢になられました。しかしあなたの息子たちはあなたの道を歩んでいません。ですから、今こそ諸国と同じように我々にも王を立ててください」
 確かに、息子たちは民を裁くどころか不正を行ない、賄賂を受け取り、幕屋に仕える女たちと不倫な交わりをしていたので、サムエルは反論することができなかった。しかしその事と、永年続いてきたイスラエル独特な国家の根幹を覆す事とは別問題であった。サムエルは困惑した。これまでイスラエルの真の王は生きている神エホバであった。預言者であれ、士師であれ、すべて生きて活動する神の指示によって動いていた。それは父祖伝来、揺るがすことのできない現実であった。ゆえにサムエルは言った。
「いいえ、それはできません。わたしたちには王なる神エホバがおられます」
 しかし長老たちは、サムエルの言葉を聞き入れなかった。そこでサムエルは神に問うて祈った。すると神は答えて言われたのである。
「『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを棄てて他の神に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきりと警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。』」(サムエル記上 八:七―九)
 それでサムエルは王を要求する民にこう告げた。
「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を作らせるためである。
 また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
また、あなたたちの奴隷、女奴隷、若者たちのすぐれた者や、ロバを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。
こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(サムエル記上 八:七―一七)
人間製の王をもつなら、そのために民が負わねばならないこと、なおかつそれは王の奴隷となること、そのために苦しみ叫ぶことになるが、わたしはそれに答えないと警告された。サムエルはそのことを民に伝えたが、民は耳を傾けようとはしなかった。
「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いを戦うのです。」(サムエル記上八:一九、二〇)
実のところ、民は何も理解していなかった。永い間、神に導かれ、神に庇護されてきたのである。それ以外の体制を知らなかった。人間の王をもつということは、諸国民と同じように自ら苦悩する社会をつくることだった。しかもそれに伴う苦痛は、神のような愛の鞭のためではない。残忍で暴虐、貪欲で不道徳、不公正の極みであり、民は公正を求めて泣き叫ぶことになることだった。いうまでもなくそれは、民と同じような罪人であり、いいえ、それ以上に権力を握った者が陥ってしまう罪人に従うことだった。(コヘレトの手紙 八:九)神は人の上に人を、人の下に人をつくられなかったので、同じ罪人が支配し、支配されることは、必ず苦しむことになるのだった。しかし神は、彼ら無知なる人間がそのことを知るようになるためにサムエルに言われたのである。彼らの願いを聞き入れよ、と。

このようにして、古代イスラエル国民は、自ら諸国民と同じような苦難の道を歩み始めた。そして選ばれた最初の王は、ベニヤミン部族のキシュの息子サウルであった。彼は「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」(サムエル記上 九:二)
そして彼が王に選ばれたのも神であった。ある日、サウルの父キシュは、ロバが数頭いなくなったので、息子サウルに従者一人を連れてロバを捜しに行くようにと言った。しかしエフライムの山地を越えてもロバは見つからなかった。すると僕が「この町には神の人(預言者)がおられます。その人に尋ねてみましょう」と言ったので、その人を捜して町に入った。すると彼らが捜していた神の人、預言者サムエルに出会った。サムエルは、民のために高台で生贄を捧げるために上って行くところであったが、実は前日、彼は神からこう告げられていたのである。
「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたに遣わす。あなたは彼に油を注いで、わたしの民イスラエルの指導者としなさい。民の叫び声がわたしに届いたので、わたしは彼によってペリシテ人の手から民を救い出す」
 このようにして、サムエルとサウルは出会った。
「お尋ねしますが、先見者(預言者)の家はどこでしょうか」
 サウルが近づいて来てそう言うと、神はサムエルに言われた。
「わたしが告げたのはこの者である。この男がわたしの民を支配する」
 サムエルは答えた。
「わたしがその先見者です。あなたは先に高台へ上ってください。あなたは今日わたしと一緒に食事をすることになっています。明日の朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にかかっていることをすべてお話しましょう。ロバのことはもう心配することはありません。ロバは見つかりました。それよりも今、全イスラエルの期待はだれにかかっていると思いますか。あなたです。あなたの父の全家です」
 サウルには、予見者の言葉の意味がつかめなかった。
「何をおっしゃっているのでしょうか。わたしはイスラエルの中でも、最も小さなベニヤミン部族の、またそのなかでも取るに足りない氏族の者です」
 しかしその日の夕方、サウルと従者は、三十人ほどの人が集まった食事に招かれて上座につかせられた。そして翌朝早く起きたサムエルは、サウルの従者を先に発たせてから、油の入った角を取り出してサウルの頭に油を注いだ。そして彼に口づけをして言った。
「神エホバがあなたに油を注ぎ、あなたを御自分の民の指導者とされました」
油が注がれるとは、どんな立場であれ、神によってその任を与えられたしるしである。サウルは神によって王に選ばれたのである。
「今、何とおっしゃいましたか」
「神があなたをイスラエルの王とされたのです」
「いいえ、わたしはただ、いなくなったロバを捜しに来ただけの者です」
 驚き戸惑うサウルに、サムエルは告げた。彼が家に帰る途中、誰に出会い、その者が何を言い、また何をくれるかなど、起きるあらゆることをすべて予言したのである。また、サウル自身に神の霊が降り、彼はこれまでとは全く別人のようになり、預言者のように振舞うことも話した。そして実際にそのようになったら、それは神の霊が降り、神があなたと共におられるしるしなので何でもしなさい、と言った。サウルはまだよく理解しないまま、ともかく家路についた。しかし、ベニヤミン領のツェルツァにあるラケルヤコブの妻であり、ヨセフとベニヤミンの母)の墓のところで二人の男に出会った。そのうちの一人が、「あなたが見つけようと出かけて行ったロバは見つかりました。父上はもうロバのことではなく、あなたのことを心配されて、息子のことをどうしようと言っておられます」と告げた。そして町に入るときには、預言者の一団に出会い、その霊がサウルに激しく降ったので彼は別人のようになってしまった。サムエルが予言したこれら数々の不思議なことを経験した後にサウルは、サムエルの言葉を思い出したのである。
「ギルガルへ行ってわたしを待っていてください。そこで和解の捧げ物と焼き尽くす捧げ物を一緒に捧げましょう。わたしが着くまで七日の間待っていてください、そのときあなたがなすべきことを教えましょう」
サウルは父の下に帰った。父は息子の上に大きな変化があったことを知らず、ただ息子の無事を喜んだ。しかし叔父のアブネルは、サウルがまるで別人のようになっているのを見て、何があったのかと尋ねた。サウルは、預言者サムエルに会って、「ロバは見つかったので安心するように」と言われたことだけを語り、王権については何も触れなかった。
その後、サムエルは、神の御名によってミツバですべての民を集めて言った。
イスラエルの神エホバは仰せになりました。『あなたがたの父祖たちをエジプトの手から救ったのはわたしだ。あなたたちを苦しめるすべての王国から救い出したのもわたしだ。』しかしあなたたちはその神エホバを退け、『我々の上に王を立ててください』と言っている。よろしい、神はあなたたちの声を聞き入れるように言われました。ですから、部族ごと、氏族ごとにエホバの前に出なさい」
 そして、イスラエルの十二部族の全部がエホバの前に出た。それから籤を引くとベニヤミン族が選び出された。次いでベニヤミン族の中から、マトリの氏族が籤で選び出された。最後にその氏族のなかのキシュの息子サウルが籤で選び出された。こうしてサムエルの語ったすべての預言は成就して、イスラエルの最初の王が選び出されたのである。
民は歓び叫んだ。
「我々の王だ!サウルだ!」
 しかし、そのときサウルが見つからなかった。
「我々の王はどこにいる!」
人々は騒ぎ立ち、彼を捜したが見つからなかった。そこで神に尋ねた。
「見よ、彼は荷物の間に隠れている」
と答えられた。人々がそこへ走って行くと、彼は恥ずかしそうに荷物の陰に身を隠していた。人々は彼を引っ張って来て民の真ん中に立たせた。彼はほかのだれよりも頭一つ高く、イスラエルでいちばん美しかった。サムエルは民に紹介して言った。
「見るがいい。神が選ばれたあなたがたの王だ! 我々のなかで彼に及ぶ者はだれもいない」
 すると民は歓呼の声を上げ、両手を挙げて、足を踏み鳴らして叫んだ。
「王様万歳! 王様万歳」
 しかし一部のどうしようもない男たちは、
「彼にどうして我々が救えようか」
とつぶやいた。
 イスラエルの民は、このようにして人間の王を得、神エホバを退けたのである。そこでサムエルは何度も神が警告されてきたこと、人間の王の支配下に入ることに伴う苦痛と義務について書き記し、それをエホバの前に納めた。
後に預言者ホセアは、彼らの未来について次のように預言した。
「エフライムが語れば恐れられ
 イスラエルの中で重んじられていた。
 しかし、バアルによって罪を犯したので 
    彼は死ぬ。
今も、彼らはその罪に加えて
 偶像を鋳で造る
 銀を注ぎ込み、技巧を尽くした像を。
 それらはみな、職人たちの細工だ。
 彼らは互いに言う。
『犠牲を捧げる者たちよ、子牛に口づけせよ』と。
 彼らは朝の霧
 すぐに消え失せる露のようだ。
麦打ち場から舞い上がる籾殻のように
煙出しから消えて行く煙のようになる。

わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
 わたしのほかに、神を認めてはならない。
 わたしのほかに、救い得る者はいない。
 荒れ野で、乾ききった地で
  わたしはあなたを顧みた。
 養われて、彼らは腹を満たし
 満ち足りると、高慢になり
 ついにはわたしを忘れた。

 そこでわたしは獅子のように
   豹のように道で彼らをねらう。
 子を奪われた熊のように彼らを襲い
 脇腹を引き裂き
 その場で彼らを獅子のように食らう。
 野獣が彼らを咬み裂く。

 イスラエルよ、お前の破滅が来る。
 わたしに背いたからだ。
 お前の助けであるわたしに背いたからだ。
 どこにいるのかお前の王は
 どこの町でも、お前を救うはずの者
 お前を治める者らは。
『王や高官をわたしにください』と
お前は言ったではないか。
 怒りをもってわたしは王を与えた。
 憤りをもって、これを奪う。」(ホセア書 一三:一—一一)
神エホバは、人間の王を求めた民に、怒りをもって応え、憤りをもってその王を取り去られることを預言しておられたのである。勿論のこと、これらの預言すべては一言も違うことなく彼らの上に臨んだ。
  

二 サウル王の初陣


サウルが油注がれた後、アンモン人(アブラハムの甥ロトが自分の娘の一人によって設けたアンモンの子孫)のナハシュが、イスラエルのヤベシュ・ギレアデを包囲し、ヤベシュに降伏を求めてきた。ヤベシュの人々は降伏して仕えることを申し出た。しかしナハシュは言った。
「よかろう。ただしお前たち全員の右目をえぐり取ることが条件だ」
 そのことは、サウルが住んでいたギブアの住民に伝えられ、民はみな声を上げて泣いた。そこへサウルが畑から牛を追って帰ってきた。
「どうしたのか。みんななぜ泣いているのだ?」
 ヤベシュからの使者は泣きながら、ナハシュの言葉を伝えた。するとサウルの内に神の霊がはたらき始め、彼は怒りに燃えて、一対の牛を捕らえてそれを切り裂いた。そしてその牛の肉を使者たちに持たせてイスラエル全土へ持ち帰らせ、次のように言わせた。
「サウルとサムエルに従って出陣しない者は、この牛のようになる」
恐れた民は集結した。その数は、イスラエル人が三〇万人、ユダ族が三万人だった。彼らは三つの隊に分けられ、翌朝早くアンモン人の陣営に突入した。その熾烈な戦いは日盛りの頃まで続き、アンモン人は大敗北し、二人一緒に生き残った者はいなかった。サウルは初めての戦いで大勝利をおさめたのである。そこで或る者たちは、「サウルが我々の王になどなれようか」と侮った者たちを殺しましょうか、と言った。しかしサウルは、
「今日はだれも殺してはならない。神が救ってくださったのだから」
と言った。
この戦いの後、サムエルは民に言った。
「わたしたちはギルガルへ行きましょう。そこで神エホバの救いの御業に感謝の捧げ物をしましょう」
 民は大いに喜び、神の御前で改めてサウルの王権を確認した。同時にサムエルは、自分が死んだ後の全イスラエルの行方を案じて語った。
「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行なわれた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。ヤコブがエジプトに移り住み、その後、先祖が主に助けを求めて叫んだとき、主はモーセとアロンをお遣わしになり、二人はあなたがたの先祖を導き出してこの地に住まわせた。しかし、あなたたちの先祖が自分たちの神、主を忘れたので、主がハツォルの軍の司令官シセラ、ペリシテ人、モアブの王に売り渡し、彼らと戦わせられた。彼らが主に向かって叫び、『我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます』と言うと、主はエルバアル、ベダン、エフタ、サムエルをつかわして、あなたたちを周囲の敵から救い出してくださった。それであなたたちは安全に住めるようになった。ところが、アンモン人のナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主が王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えくださる。だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主のご命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。さあ、しっかり立って、主があなたたちの前で行なわれる御業を見なさい。今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて王の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」
 サムエルが呼び求めると、その日、主は雷と雨とを下された。民は皆、主とサムエルとを非常に恐れた。民は皆、サムエルに願った。『僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々は重い罪の上に、更に王を求めるという罪を加えました。』
 サムエルは民に言った。『恐れるな。あなたたちはこのような罪を行なったが、今後はそれることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれていってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名ゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちになされたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼしさられるであろう。』」(サムエル記上 一二:六―二五)
 後にこの預言はすべて成就した。イスラエルの民は、神エホバに対して何度も罪を犯したので、王も民も滅ぼされた。生き残った民のすべては、当時の世界強国であったバビロンへ捕囚として引かれて行ったのである。(紀元前七世紀)しかし、神は御自分の民の捕囚の期間を定めておられた。その七〇年間が経過したとき、世界強国バビロンを、後にメディア・ペルシャの王となったキュロスを用いて倒させ、大王となったキュロスにイスラエルの民を釈放させられた。そして帰還した彼らは、神エホバの神殿を再建した。しかし性懲りも無く再び神を棄てたので、西暦七〇年には再び首都エルサレムを次の世界強国となったローマによって滅ぼされたのである。
 
 サウルが王となってから二年が経過していた。サウルはイスラエルの民の中から三千人を集め、二千人をミクマシュとベテルの山地に置き、残りの兵士はギブアで守備にあたっていた息子ヨナタンの配下に置いていた。その時ヨナタンは、ベニヤミンのゲバに配置されていたペリシテの守備隊を討ち破った。ペリシテ人はそれを聞いて、イスラエルと戦うために集結した。その軍勢は、戦車三万、騎兵六千、兵士は海辺の砂粒のようであった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマシュに陣を敷いた。それを見たイスラエルの人々は、大軍に恐れをなして、洞窟や岩の裂け目、岩陰や穴倉、井戸などに身を隠して脅えていた。隊から離脱してヨルダン川を渡ってガドやギレアドの地へ逃走して行く者も出た。しかしサウルはギルガルに踏み止まっており、サムエルが到着するのをひたすら待っていた。サムエルから命じられたように七日間待った。しかしサムエルはギルガルに来なかった。そのため兵士たちは騒ぎ立ち、サウルの下から散り始めた。待ち切れなくなったサウルはついに、従卒に「焼き尽くす捧げ物と、和解の捧げ物を持って来い」と命じて、自ら焼き尽くす捧げ物をささげた。それは王といえども決して行なってはならない越権行為であった。そして、サウルが焼き尽くす捧げ物をささげ終えたとき、サムエルがようやく到着した。サウルは喜び勇んで彼を出迎えて挨拶をした。しかしサムエルは言った。
「王よ、あなたは何をされたのですか」
「兵士たちはペリシテ軍を怖がって、わたしのもとから散って行き始めたのです。しかも敵の軍はミクマスに集結し、今にもわたしたちに向かって攻め込もうとしていました。けれどあなたは約束の日に来てくださいませんでした。わたしは一刻も早く神エホバに嘆願しなければならないと思い、それで敢えて焼き尽くす捧げ物をささげました」
「あなたは愚かなことをしました……」
 サムエルはほんとうに悲しそうな目でサウルを見つめた。
「あなたは、あなたの神エホバがお与えになった戒めを守っているべきでした。それは難しいことではなかったはずです。そうしていれば、あなたの王権は永久に続きました。しかし、今となってはどうすることもできません。神はあなたに代わって御心に適う人をお立てになります。わたしが命じたことをあなたは破り、守らなかったからです」
 サウルには、神エホバを信頼する心が欠けていたのであった。そしてそのことが神に対して僭越な振る舞いをさせたのである。サムエルは、サウルのことで悲しみながら、ギルガルからベニヤミンのギブアに上って行った。それでサウルは、自分の下に留まっている兵士を数えた。それはわずか六百人になっていた。息子ヨナタンの指揮下にいる者はすべてベニヤミンのゲバに留まっていた。ヨナタンは、この戦いで神が必ずペリシテ人を自分たちの手に与えてくださるという強い信仰をもっており、自分の武具持ちである従卒に言った。
「さあ、あの無割礼な者どもの先陣に向かって行こう。神が我々二人のために必ず取り計らってくださる。神が味方してくださるなら、それは兵士の数の問題ではない」
「あなたの思いどおりになさってください。わたしはあなたと共に参るだけです。わたしたちは一心同体です」
「よし、行こう。無割礼の彼らに姿を見せてやろう」
 そこは岩の切り立った険しいところであり、一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。二人はその岩陰にしがみついていた。それを見たペリシテ人たちは言った。
「やあ、あそこにヘブライ人がいるぞ。隠れていた穴から出て来たにちがいない。やい、こっちに上って来い」
とはやし立てた。ヨナタンは従者に言った。
「神エホバは、必ずや彼らをわたしたちの手に渡してくださる。さあ、行こう」
 そしてその時、わずかな時間で二人が討ち取った敵兵の数は、およそ二〇人であった。それは一対の牛が半日で耕すことができる畑半分のなかで行なわれた。そのためペリシテ人の陣営は恐怖に襲われ、その怖れは陣営全体へ波及した。このヨナタンの英雄的行為に励まされたイスラエルは、この戦いで勝利したのである。
 しかし父サウル王は、兵士たちに、この戦いに勝つまではだれも何も食べてはならないという誓いを立てさせていた。ヨナタンはそのことを知らなかった。それで彼は、山野にあった蜂蜜を杖の先につけて一口食べてしまった。その罪をとがめた父サウル王は息子といえども、彼は死に処されるべきである、と言った。するとヨナタンは、「わたしを殺してください」と答えた。けれど兵士たちが、「とんでもない。この戦いに勝利したのは、ヨナタンと共に神がおられたからです。その彼がどうして死ななければならないのですか。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本地に落としてはなりません」と言ったので彼は死から免れた。
 
 サウルはイスラエルの王権を握ったその時から、周辺諸国のモアブ、アンモン、エドム(ヤコブの双子の兄弟エサウの子孫)ツォバ(シリア人の王国)、そし絶えず鉄の大鎌のついた戦車を有して強力な軍隊を誇っていたペリシテ人(北はヨッパの辺りから南はガザに至る八〇キロにわたって地中海沿岸にあり、内陸には二四キロあった。この地は穀物、オリーブ、果樹がよく育つ肥沃な地だった)の王たちと戦わなければならなかった。カナンの地に入ったもののこの動乱の時代、サウルはいわば戦うための王となっていたようなものである。しかしイスラエルの王には、武器に勝って強力な神の力がはたらいたので、信仰で戦うことができた。戦い慣れのした周辺の諸国民に勝利することができたのは、この神の盾があったからであった。そしてその戦いの先陣を切って行くのはいつでも王自身であった。この時代、イスラエルの王となるということは、陣営の背後で指揮するのではなく、兵卒の陣頭に立って自らが戦士となることだった。それでその王自身が倒れるなら、兵卒はみな散っていき、敗北を意味したのである。その点、サウルも勇敢な戦士であり、神の霊が降っている時には、どんな戦いにも勝利し、あの強力な軍備を誇るアマレク人(ヤコブの子エサウの長子エリパズが側女のティムナによって設け子どもの子孫)をも討ち倒し、彼らの略奪隊の手からイスラエルを救出したのである。
 


第二章 ダビデ油注がれる


  一 サウルは神から退けられる
 
サウルをイスラエルの王として任命されたのは神エホバであった。そのような国民はイスラエルの民以外のどこにもなかった。神エホバが交渉をもたれた国は、世界中で唯一つ、アブラハムの子孫であるイスラエルのみである。それだけでも不思議なことであるが、人間の思惑はさておいて、実際に神はその力を示しておられた。したがって、神に選ばれた王には、神の聖霊が降り、王には普通を越えた力や知恵が与えられていたのである。そのうえ、王サウルはイスラエルでいちばん容姿の美しい人だったので、他に何の不足もなかった。また、王のそばには預言者サムエルがおり、彼が神の御言葉を語ってくれて、それを守っていればそれでよかったのである。
 さて、あるときサムエルはサウル王に言った。
「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道で、アマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け、アマレクを討ち、アマレクに属する者は一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、駱駝もロバも討ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上 一五:二、三)
 このように、神がアマレク人を討たせたことには、確固とした神の義があった。たとえ人間がその理由を理解できなかったとしても、神は預言者を通してその理由を伝えられていたのである。それでサウルは兵士を招集した。歩兵が二〇万人、ユダの兵は一万人であった。サウルはテライムまで来ると、兵を川岸に止め、アマレク人以外のカイン人に言った。
「アマレクの町を出てください。あなたがたをアマレク人の巻き添えにはしたくありません」
 戦いは熾烈だった。男も女も、子どもも乳飲み子の区別もなかった。ことごとくを剣にかけて殺した。牛も羊も殺した。しかしサウルは、アマレクの王アガグを生け捕りにし、肥えた羊や牛の最上の物は殺さずに自分たちの収得物にした。そこで神の言葉がサムエルに臨んで言った。
「わたしはサウルを王に立てたことを悔やんでいる。彼は心を翻し、わたしが命令したことを果たしていない」
 サムエルは一晩中、エホバに向かって叫んだ。サウルのために嘆願した。それから朝早く起きてサウルに会いに出かけた。するとサウルも朝早く、自分のための戦勝碑を立てるためにカルメルへ行き、そこからギルガルへ下っていた。サムエルはサウルを追ってギルガルへ下った。するとサウルは言った。
「主の御祝福がありますように。わたしは主の御命令を全部果たしました」
 サムエルは言った。
「それでは今聞こえている牛や羊の鳴き声はどういうことなのか」
「あの羊と牛は最上の物です。兵士たちが神エホバのための捧げ物として取り分けておいたのです。ほかの物はみな滅ぼし尽くしました」
 サウルは嘘をついていた。
「やめなさい。昨夜、神エホバがわたしに言われたことをあなたにお話しましょう」
「お話ください」
「サウル王よ、あなたに油注いで、あなたをイスラエルの王にしたのはだれですか。あなたはその神からアマレクを滅び尽くすようにと命令されていました。しかしあなたは、戦利品のために目がくらみ、神の目に悪とされることを行いました」
 サウルは弁解して言った。
「わたしは神の命令をすべて果たしました。兵士が神への捧げ物にしようと、最上の牛と羊を残しただけです」
「王よ、神が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げ物ではありません。神の御言葉に聴き従うことは、生贄に勝り、雄羊の脂肪を捧げることに勝るのです。反逆は、占いの罪に、高慢は偶像崇拝を行なう罪に等しいのです。あなたは神エホバの御言葉を退けたので、神もあなたを王位から退けられます」
 それがサムエルに臨んだ神の言葉だった。むろんのこと、神の言葉は絶対であり、その言葉が撤回されたり、弱められたりすることはなかった。サムエルの心はその言葉を伝えることで痛んだ。サウルはどうしてこんなにも軽率なことをしたのか! 神の御意志を守っていたなら、彼の王朝はいつまでも栄えたであろうに……。
 ついにサウルは言った。
「わたしは罪を犯しました。神の御命令と、あなたの言葉に背きました。兵士たちがそれを欲しがり、殺すことを惜しんだのでわたしは許しました。彼らを恐れたからです。どうかわたしの罪を赦してください。わたしと一緒に帰ってください」
 サウルは、兵士たちの手前を気にしていたのである。しかしサムエルは答えた。
「わたしはもうあなたと一緒に帰ることはできません。あなたが神の御言葉に背いたので、神もあなたを王位から退けられました」
 サムエルが立ち去ろうと身を翻すと、サウルはサムエルの上着の裾をつかんだ。すると上着は裂けて一部がサウルの手に残った。サムエルはきっぱりと言い渡した。
「王よ、今日、神エホバはあなたからイスラエルの王国を取り上げられました。このことが変更されることはありません。神はあなたよりも優れたもっとふさわしい方に王権をお与えになります」
 それからサムエルは命じた。
「アマレクの王アガグを連れて来なさい」
 アガグが連れて来られると、サムエルは剣を取って言った。
「お前の剣は女たちからどれだけの子供を奪ってきたことか! しかし今お前の母親は、それら子どもを奪われた女のなかでも、最も無惨に子どもを奪われた女となる」
 そしてサムエルは、神エホバの前でアガグを切り刻んだ。
 それからサムエルはラマへ帰り、失意のサウルもギベアへ帰って行った。その後、サムエルは二度とサウルに会うことはなかった。サウル王のために嘆き悲しんでいたからである。
  
 二 ゴリアテと戦ったダビデ
  

 神エホバの言葉がサムエルに臨んで言った。
「サムエルよ、あなたはいつまでサウルのために嘆いているのか。サウルは王位から退けられたのだ。さあ、角に油を満たして、ベツレヘムのエッサイの家へ行きなさい。わたしはその息子たちのなかに王となる者を見出した」
「いいえ、主よ、どうしてわたしが行けるでしょうか。サウルが聞けばわたしは殺されるでしょう」
 実際、サムエルはサウルを恐れていた。預言者といえども、王は容赦なく殺したのである。
「サムエルよ、わたしの言うとおりにしなさい。あなたは雌牛を引いて行く。そして『エホバに生贄を捧げるために来ました』と言いなさい。そして生贄を捧げるとき、エッサイを招きなさい。なすべきことはその時わたしが告げる」
 サムエルはベツレヘムに向けて出発した。するとベツレヘムの長老たちは、預言者でもあるサムエルを迎えて不安に思った。
「平和なことでおいでくださったのでしょうか? それとも……」
「平和のために来ました。生贄を捧げるためです。皆さんは、身を清めてから生贄の会食におい出ください」
 エッサイの息子たち七人は身を清め、清潔な衣をまとって会食に出た。サムエルには重大な使命があった。新たにイスラエルの指導者となる者に油を注ぐということである。最初に入ってきた長男エリアブは背も高く、容姿もよかった。サムエルはすぐに、彼こそ油注がれる者だと思った。しかしエホバはサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を留めてはならい。人間は外見を見るが、わたしは心によって見る。わたしは彼を選んではいない」
 次にアビナダブがサムエルの前を通った。しかしその人も神が選ばれた人ではなかった。そこで、シャンマ、ネタヌエル、ラダイと順次七人の息子たちがサムエルの前を進んで行ったが、神はどの人も選ばれていなかった。そこでサムエルは言った。
「あなたの息子たちはこれで全員ですか」
「いいえ、末の息子がもう一人おります」
「どこですか?」
「今、羊の番をしていてここにはおりません」
 サムエルは言った。
「どうか、早く彼をここに連れて来てください。その子が来ないうちに会食はできません」
 父エッサイは使いの人をやって、羊の番をしていた末の息子ダビデを呼んで来させた。
「お父さん、何のご用ですか」
 入って来た少年は血色がよく、美しい目をしており、容姿が非常によかった。エホバは言われた。
「彼がその者だ。彼に油を注ぎなさい」
サムエルは立って油の入った角を取り出して彼に油を注いだ。その日以来、少年ダビデに神の霊が激しく降るようになった。しかしダビデはその後も、得意な竪琴を奏でながら父の羊飼いをしていた。
そしてサムエルは、ダビデに油を注ぐと、ひっそりと自分の故郷ラマへ帰って行った。

 他方、そのころから、神の霊はサウルから離れていった。そればかりか王は、神から来る悪い霊に悩まされるのだった。そのような折、またもペリシテ人イスラエルと戦うために軍隊を集結し、ユダのソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を張った。それに対してサウル王も、イスラエルの兵士たちを集結し、エラの谷に陣を敷いた。つまり両軍は谷を挟んで両方の山に陣取り、相対峙したのである。どちらにも緊迫した空気が漂い、相手の出方をじっと見守っていた。
そんなある日、ペリシテ軍の陣地から一人の大男がイスラエルの戦列に向かって大声で呼ばわった。
「わたしはペリシテの兵士、お前たちはイスラエルのサウルの僕。お前たちの中から一人を選んでわたしの方へ下りて来させよ。一騎打ちをしようではないか。もしわたしが討ち取られるなら、我々はお前たちの奴隷になろう。だが、わたしが勝てば、お前たちが我々の奴隷として仕えるのだ。よいか、我々は今日、イスラエルの戦列に挑戦する」
 その嘲弄は朝な夕な、四十日にわたって叫び続けられた。イスラエル軍はすっかり脅え、その挑戦に応じる者はだれもいなかった。彼はゴリアテという巨人で、背丈は六キュビトと一指(二・九メートル)、銅の小札帷子の重さは五〇〇〇シュケル(五七キロ)、槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先の鉄の刃は六〇〇シェケル(六・八キロ)もあった。そして足には銅の脛当てを着け、肩には青銅の投槍を背負っていた。彼はガト出身のレファイム人(死海の東部に住んでいた巨人の種族。手足の指が六本ずつあった)であり、彼の前には盾持ちがいたが、それはほんの子どものように見えた。
 ちょうどそこへ、少年ダビデがやって来た。彼は父エッサイに頼まれて、この戦いの宿営にいた三人の兄のために、炒り麦一エファ、パン十個、チーズ十個を千人隊の隊長に届けるために来たのであった。ダビデはそれらの物を武具の番人に預けると、イスラエルの戦列に向かって走って行った。父親から、兄たちの安否を確かめ、そのしるしをもって帰るようにと言われていたからである。兄たちはみんな無事であった。ダビデが兄たちと話していると、またゴリアテが同じことを繰り返して叫んだ。それでダビデはその声を聞いた。ダビデは周りの兵士たちに尋ねた。
「あの無割礼のペリシテ人の兵士は何者ですか。生ける神の戦列を嘲弄するとは!」
 しかしイスラエルの兵士たちはみんな恐れおののいており、少年ダビデの話など聞いてもいなかった。ダビデはもう一度尋ねて言った。
「あのペリシテ人を打ち倒した者にはどんな褒章があるのですか」
「彼を討ち取る者には、王様が大金をくださるそうだ。さらに王女をくださり、その者の父の家にはたくさんの特典が与えられるそうだ」
 長兄エリアブは、ダビデが兵士と話しているのを聞いて不快に思って腹を立てた。
ダビデ、お前はいったい何のために来たのだ。少しばかりの羊をだれに任せてきたのか。わたしはお前の思いあがりと野心をよく知っている。お前が来たのは戦いを見るためだろう」
 ダビデはいぶかるような目で兄を見上げた。
「お兄さん、何を怒っているのですか。わたしが何をしたというのですか。この方と少しお話をしているだけではありませんか」
 このダビデのことをサウルに告げる者があったので、王は興味を示し、ダビデを召し寄せて言った。
「お前があの巨人のゴリアテと戦うというのか。それはできまい。お前はまだほんの少年だ。しかしあいつは少年のころからの戦士なのだ」
「王様、あのペリシテ人のことで恐れてはなりません。僕が行って彼と戦いましょう」
サウルは目を細めて言った。
「お前が戦うというのか? あの巨人と一騎打ちをするというのか?」
「はい、王様。わたしは父の羊を飼う者ですが、羊はライオンや熊やオオカミに狙われます。しかしわたしはそれらの猛獣を追いかけて行き、その口から羊を取り返すのです。ライオンが向かって来るときには、そのたてがみをつかんで打ち殺します。熊の口も引き裂いてその口から羊を救います。ですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のように倒してみせましょう。彼は生ける神の戦列を嘲笑したのですから」
 ダビデは、サムエルから油注がれて以来、激しく神の霊が降っていたので、オオカミなどは言うに及ばす、熊やライオンを素手で倒すことができるのだった。
「お前は何も持っていないようだが、何を持って戦うのか」
「王様、ライオンの手や熊の手からわたしを守ってくださったのは神エホバです。エホバはあのペリシテ人の手からも必ずわたしを守ってくださることでしょう」
 ダビデには勝つ自信があった。神の霊を強く感じていたからである。
 サウルは言った。
「行くがよい、少年よ。生ける神エホバがお前と共におられますように」
 そしてサウルは、自分の装束をダビデに着せた。頭に青銅の兜を載せ、身に鎧を着けさせ、サウルの剣を身に帯びさせた。
「さあ、行って来い!」
 サウルはダビデの肩を叩いて送り出そうとしたが、ダビデは歩くことすらできなかった。
「王様、失礼ですが、わたしはこんなものを身に着けては歩けません」
 そう言うと、彼はそれらの装束全部を脱ぎ捨てた。そして手馴れた羊飼いが持つ自分の杖一本を手にすると、川岸へ下りて行き、そこから滑らかな小石五個を選んだ。その小石をいつも肩にかけている羊飼い用の投石袋に入れた。そしてすばやく右手に石投げ紐を巻きつけるや、巨人ゴリアテに向かって走って行った。まさしくそれは小さな子どもが大男に向かって駆けて行くようなものであった。
「面白い。このおれの相手になる者が現われたとはな。よろしい、座興の一つだ。みんなに楽しんでもらおう」
ゴリアテは、笑みを浮かべながらダビデを待った。盾持ちも彼の前に立って構えていた。ところが近づいて来るのを見ると、それは容姿がよくて血色のよい凛々しい少年だったので、ゴリアテは侮って言った。
「わたしは犬か? 杖をもってわたしを追い払うというのか!」
 それから、自分の神々の名をぶつぶつと唱えながらダビデを呪った。
「さあ来るがよい。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」
 ゴリアテは機織棒のように太い槍をビュンビュンと振り回した。
 ダビデは答えて言った。
「お前は剣や、槍や投槍でわたしに向かって来るが、わたしはイスラエルの神エホバの御名によって向かって行く。今日、エホバはお前をわたしの手に渡される。わたしはお前を討ち、お前の首を必ずその体から切り落とす。そしてペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。そのことによって、全地の人々はイスラエルに生きておられる神エホバが実在することを知るであろう。神エホバから救いを賜るのに、剣や槍は要らないのだ。ここにいるすべての者はそのことを見ることになる。この戦いは生きている神エホバのものだ。エホバは必ずお前たちをイスラエル人の手に渡される」  
 それに応えてゴリアテも、大音声で呼ばわりながらダビデに迫ってきた。その傍らの盾持ちもそれについて走った。両軍の兵士たちは固唾を飲んで見守った。だれもが少年ダビデが一瞬にして哀れにも倒れることを予想していたのである。しかしダビデは奔った。ゴリアテに立ち向かうために有利な場へと走った。そしてゴリアテとの距離を目測し、その距離がおおよそ五〇メートル位の地点になるとピタリと止まった。そして素早く、肩から下げていた皮袋に手を入れるや否や、目にも止まらぬ速さで小石を取り出し、石投げ紐を使ってビュンビュンと回した。
「あっ」
兵士たちは、瞬きしながら小石の行方を追った。すると何ということだろう。あの巨体のゴリアテがゆっくりと傾いているではないか? そして彼は、剣や槍に手をかけるひまもなくうつ伏せに倒れたのだった。何が起きたのだ! どうしたのだ! 両軍の兵士たちは目を凝らして見た。ゴリアテは倒れたままピクリともしなかった。ダビデはまた走った。するとペリシテ人イスラエルの両陣営からどよめきの声が上がった。それは津波のように陣地を奔った。信じられないことが起こったのである。小石はゴリアテのこめかみに食い込み、彼はもだえる暇もなく地に倒れたのだった。盾持ちは一目散に走って逃げた。
「あいつ!」
サウル王も思わずうなった。拳を握って身を乗り出して見つめた。ダビデゴリアテの傍に走り寄ると、その巨体の上にまたがって、彼の剣を鞘から引き抜いた。そしてゴリアテの心臓にとどめを刺した。さらにゴリアテの首を切り落とした。それを見ていたイスラエルとユダの兵士たちは鬨の声を上げて陣営から躍り出した。他方、ペリシテ人の陣営からは、クモの子を散らすように兵士たちが逃げ惑っていた。それを追撃していくイスラエル人。彼らはペリシテ人の兵士たちを手当たり次第に刺し殺し、その死体をガトとエクロンに至るシャアライムの道に積み重ねていった。それから、引き返したイスラエルの兵士たちはペリシテ軍の陣営を略奪した。
サウル王は立ち上がって叫んだ。
「アブネル!」
「はい、王様、ここにおります」
 アブネル(サウルの父キシュはネルの子であり、そのネルの子でキシュの兄弟。サウルの叔父)はイスラエル軍の司令官であった。
「あの少年は誰の子か!」
「王様、誓って申し上げますがわたくしは全く存じません」
「早く、誰の息子か調べよ」
「はい、王様」
 アブネルは急いで王の前から出て行った。そしてゴリアテの首を下げて平然としている少年ダビデを見つけると、その腕を掴んで王の前へ導いて行った。
「王様、この子にございます」
 サウルは言った。
「おお、少年よ、お前は誰の息子か」
「はい、王様の僕であるベツレヘムのエッサイの息子でダビデと申します」
「そうか、ベツレヘムのエッサイの息子だな……」
 サウルは確かめるようにそう言うと、ユダ族のダビデをじっと見つめた。粗末な衣服を身につけているのに、その澄んだ瞳、清々しく美しい容姿、気品のある静けさが漂っているのである。この少年のどこからあれほど大胆で勇敢な行動が出てくるのかと探ったが、全く分からなかった。しかも、成し遂げたことを誇る様子も気負いもなく、彼は泰然自若としている。サウルは直感的に恐れた。<この少年は何者なのだ?> イスラエルでサウル以上に美しい人はなく、そのうえ神から油注がれた王として、すべての権力を握っているというのに、その自分がなぜこんな少年を恐れるのだ? そう思ってみたもののダビデの魅力には勝てないと思った。サウルの心底に、恐れと妬ましさが湧いた。しかしダビデが気に入ったのも真実だった。
ダビデとやら、今日からそちを召抱える」
サウルは、その日のうちに彼を王宮に連れて行き、父エッサイの下に帰らせなかった。
こうして羊飼いの少年ダビデは、突然、強烈な戦士としてサウルの前に現れたのだった。もちろんサウルは、ダビデがサムエルから王として油注がれていることなどまったく知らなかった。


第三章 サウル王の妬み 
 
   
    一 ダビデヨナタンの友情 


 このダビデの働きによって、イスラエル人はペリシテ人との戦いに大勝利をおさめた。そして戦いを終えたイスラエル軍が帰って来ると、イスラエルの町中の人々が家から出て来て、タンバリンやリュートを打ち鳴らし、歓声をあげながら歌い踊った。
「サウルは千を討ち倒し
 ダビデは万を討った。」
 これを聞いたサウルは激しく怒った。
ダビデには万を、わたしは千か。彼がもっていないのは王権だけだ!」
 この日以降、サウルはダビデを激しく妬むようになり、その気持ちはますます強くなっていき、終生変わらなかった。そして神の霊がサウルから離れていくと、その反対に悪い霊が激しく降るようになり、サウルは何をしてもいらだった。そんなときには、いつも側に仕えているダビデに竪琴を弾かせた。その日も、いつものようにサウルはダビデの竪琴に耳を傾けていた。しかし悪い霊に襲われたサウルは、一向に気分がよくならず、むしろ快い音楽を奏でるダビデに対する嫉妬が強くなっていくばかりだった。ついにサウルは、手にしていた槍をダビデに投げつけ、
「お前を壁にでも突き刺してやる!」
 と言った。その時ダビデは危うく身をかわして槍から逃れたものの、サウルはその後にも二度、ダビデに槍を投げつけた。しかし神はダビデと共におられたので、ダビデは命を守られた。神の霊を失ったサウルにはそのことがよく判り、ますますダビデを恐れるようになっていった。それで王はついにダビデを遠去けることにし、彼を千人隊の隊長にした。ダビデが戦死することを望んでいたのである。けれど神の霊が降っていたダビデは、戦人としても兵士たちの先頭に立って戦い、いつも勝利して帰還するのだった。それでイスラエルとユダの民の心はサウルよりもダビデに傾いていき、誰もがダビデを愛するようになった。
 それを見たサウルは一計を案じた。
「見よ、わたしの長女メラブをお前の妻として与えよう。そしてわたしの戦士となり、神の戦いを戦ってくれ」
サウルは、ペリシテ人との戦いで彼を殺すために娘まで与えようと言ったのである。しかしダビデは言った。
「王様、わたしは何者なのでしょうか。わたしの一族、わたしの父の家などイスラエルのなかでも取るに足りない小さな存在です。わたしが王の婿になるとは」
 ところが、メラブをダビデに嫁がせようとしたとき、彼女はすでにメホラ人アドリエルに嫁いでいたのである。そこでサウルは、二番目の娘ミカルを与えると言った。ミカルはダビデを愛していたからである。サウルはさらに策略を巡らせて僕たちに言った。
ダビデにひそかに言え。『王はあなたを気に入っておられます。また僕たちも皆、あなたのことを尊敬していますので、どうぞ王の婿になってください。』と」
 僕たちはこの言葉をダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。
「王の婿になることは、あなたがたにとってそんなにも軽々しいものですか。わたくしは資力もなく、エッサイの家は単に羊を飼う者で身分の低い者ですのに」
 サウルの僕はこの言葉を王に告げた。すると王は巧みにこう言った。
ダビデにこう言え。『王は結納金など望んではおられない。王が望んでいるのは、ペリシテ人の陽皮百枚だ。それが王の婿となるための結納金だ』と」
 サウル王が狙っていたのは、あくまでもダビデペリシテ人によって殺されることだった。しかしこの言葉を聞いたダビデは、逆にその条件なら受け入れてもよいと思った。そこで早速自分の配下の兵士たちを率いてペリシテ人を襲った。そして二百人を討ち取ってその陽皮を持ち帰った。王のもくろみは見事に外れた。神エホバがダビデと共におられることを思い知らされただけだった。しかし諦めていなかった。
「娘ミカルをダビデに与えよう」
 と言い、ミカルをダビデの妻とした。その後もペリシテ人は、何度もイスラエルの領地に侵入したが、その都度ダビデは彼らを撃退し、王の家臣のだれよりも武勲を立てたのでサウルの恐れは高じていくばかりだった。
 
 サウル王にはヨナタンという長子がいた。彼はダビデよりも三〇歳も年上だったが、ダビデがサウルに仕えるようになったその日から、彼の魂はダビデの魂と深く結びつき、ダビデを自分自身のように愛するようになった。その愛は神の御前で契約するほどであった。後にダビデは、ヨナタンに対する愛は、「女の愛よりも強かった」と述べている。
 そのヨナタンに、父サウル王は怒りをもって命じた。
ダビデを殺せ!」
 しかしヨナタンダビデをかばって父サウルに穏やかに話した。
「王よ、ダビデのために罪を犯されませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、イスラエルのために大いに役立っております。彼が自分の命を賭けてペリシテ人を討ったので、イスラエル軍は大勝利をしたではありませんか。あなたもそれを見て喜び祝われたのではありませんでしたか。なぜ、罪の無い者の血を流して、神に罪を犯されるのですか」
 この言葉を聞いてサウルは神妙に誓った。
「分かった。神エホバは生きておられる。わたしは彼を殺しはしない」
 けれど、ダビデを殺すという気持ちは消えなかった。ただ、ヨナタンは王の言葉を信じて、それをダビデに告げた。そしてダビデは再びサウルに仕えるようになった。その間にも、ペリシテ人イスラエルを何度も襲撃した。サウルは、そのたびにダビデを出陣させ、彼が戦さで死ぬように計略した。しかしやはり戦のたびにダビデの名声は高くなっていくばかりだった。
 さて、その日も、ダビデはサウルの傍らで竪琴を奏でていた。戦士でない時のダビデは、即興の曲を巧みに弾きこなす優れた音楽家であった。けれどサウルのうえに悪い霊が降ったので、彼の気分はますます悪くなり、サウルはにわかに立ち上がると、ダビデに向かって槍を投げつけた。
「お前を壁に突き刺してやる!」
槍は確かに壁に突き刺さった。ダビデは危うく身を翻して難を逃れた。家に帰ったダビデは、そのことをミカルに告げた。
「父上は本当にあなたを殺すつもりです。ここにいてはなりません。今夜中にここを出てお逃げください」
 ミカルは館の窓から綱を下ろしてダビデを逃がした。そして、ダビデの寝床にテラフィムの像を横たえ、その頭に山羊の毛皮を被せて布団をかけた。翌朝、予測どおりに、サウルの使者が来た。サウルは使者に命じていたのである。
「ベッドごと担ぎ出して来い。そして殺せ」
 しかしそのころダビデは、ラマにいた預言者サムエルの下に逃げて行った。そしてナヨトに留まった。そのことを伝え聞いたサウルは、今度は使者をナヨトに送った。使者たちは、サムエルを先頭にして預言している預言者の一団と出合った。するとサウルの使者たちにも神の霊が降り、彼らも預言する状態になった。サウルはその報告を受けて、第二便の使者を送った。すると彼らもまた預言する状態になった。それでまた第三便の使者が送られた。やはり彼らも同じ状態になった。そこでサウルはついに、自らラマへ向かった。そしてセクの大井戸の所まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねると、人々は「ラマのナヨトです」と答えた。そこへ向かって歩いていると、また預言者たちと出合い、今度はサウル自身が預言する状態になった。彼は着物を脱ぎ捨て、一昼夜サムエルの前で裸のままで倒れていた。このことがあってから、人々の間で、「サウルもまた預言者の仲間か」という言葉が流行ったのである。このようにして、神エホバはダビデを守られたのである。

預言者ヘブライ語 ナーヴィー、ギリシャ語プロフェーテース)は、単なる告知者ではなく、神の代弁者であり、神の霊感をうけた「神の人」だった。聖霊によって任命されたので家系によって受け継ぐというものではなかった。その音信のほとんどは、神の御意志、目的、規準、裁きなどに関連しており、神は預言者を通して啓示されてからでなければ物事を行なわれなかった。預言者に霊感を与える方法は、天使である御使いによって言語による意思伝達(出エジプト三:二‐四 ルカ一:一一―-一七 ヘブライ一:一、二 二:一、二)幻(イザヤ一:一 ハバクク一:一)夢、夜の幻(ダニエル七:一)恍惚状態(使徒一〇:一〇、一一 二二:一七—二一)、また、ゴメルとホセアの結婚の場合のように、象徴的な特定の行動によって劇的に表現されることもあった。(エゼキエル四:一―三 ホセア一:二、三 列王記上一一:三〇―三九)預言者は、霊が降ると、心が鼓舞され、激しい行動や感情を反映したので、「預言者のように振舞った」と表現されることがあった。しかし真の預言者は、神エホバに於いて語り、その預言は必ず成就し、また、その預言が、啓示されている神の掟や目的に調和していなければならなかった。そうでない場合、それは真の預言者ではなく、偽の預言であると見分けることができた。さらに、ダビデ王のように、神から特定の啓示を与えられることもあった。ダビデ預言者の一人だった。  
 
 その後、ダビデはラマのナヨトから帰って来て、ヨナタンに会った。
「わたしが何をしたというので、お父上はわたしの命を狙われるのでしょうか。わたしは王に対して、どのような罪や悪を犯したのでしょうか」
 ダビデの美しい瞳は深い憂いに沈んでいた。
ダビデ、心配しないでください。このわたしが、決してあなたを殺させはしません。父は事の大小を問わず、何でもわたしに話します。ですから、父が話すことはすべてあなたに知らせます」
「いいえ、ヨナタン、王は、わたしがあなたの好意を得ていることをご存知ですから、あなたを苦しめるようなことはお話にならないでしょう。明日は新月祭です。わたしも王の食卓に預かる日です。けれどどうかわたしを逃がしてください。三日目の夕方まで野原に隠れていますのでその間に王の様子を教えてください。もしも王が、わたしが共に預かる食卓にいないことにお気づきになりましたら、どうかこのように答えてください。『ダビデは、故郷のベツレヘムに帰しました。一族の生贄を捧げる祭りがあり、兄たちがしきりに帰えるようにと言っているので、休暇をくださいと言っておりましたので』と。そのとき王が、『よろしい』と言ってくださるならそれで結構ですが、もしも御立腹されるようでしたら、これからもわたしの命は狙われると思ってください。あなたは神エホバの前で僕と契約してくださったのですから、僕に慈しみを示してください。いいえ、ヨナタン、わたしに本当に罪があるのなら、わざわざ王の前に引いて行かなくても、あなたが僕を殺してください」
 ダビデは涙を流した。ヨナタンダビデを強く抱きしめて泣いた。
ダビデ、わたしは約束します。もしも王があなたに殺意を抱いていることがはっきりしたなら、わたしは必ずあなたに教えます」
 二人の愛は親子の愛よりも強かった。
「でも、ヨナタン、王のお気持ちをわたしはどのようにして知るのですか」
「あの野原で教えましょう」
 ヨナタンダビデを野原へと誘って言った。
イスラエルの神エホバに誓って言います。わたしは父の心を探り、必ずあなたに伝えます。このようにしましょう。あなたは明後日の今頃、あのエゼルの石の傍にいてください。わたしはその方角に向けて矢を三本放ちます。そしてわたしは、従者にその矢を見つけて来るようにと言いつけますが、わたしが従者に、『矢はお前の手前にある、持って来い』と声をかけたら、あなたは無事にいられるという合図です。しかし、『矢はお前の先にある』と言ったら、それは良くないお知らせです。あなたは逃げなければなりません」
 こうしてダビデヨナタンは神エホバの御前で誓約した。
そして新月祭の夜、王は食卓に臨み、王の席に着いた。ヨナタンの席はその真正面である。軍の長であるアブネルは王の隣に座っていた。しかし、ダビデの席は空いていた。サウルはそのことに気づいていたものの、敢えて触れなかった。何かがあって身が汚れていると思えるときは欠席することもあったからである。しかし翌日もダビデの座席は空いていた。サウルは息子ヨナタンに言った。
「エッサイの息子ダビデはどうしたのだ? 昨日も今日も食事に来ないではないか」
 ヨナタンダビデとの打ち合わせどおりに答えた。
ベツレヘムに帰っています。彼は、一族で生贄を捧げるのでぜひ行かせて欲しいとしきりに賜暇を求めましたので、わたしが許可しました」
 するとサウルは激しく怒って言った。
「不実な女の息子よ、お前がエッサイの子に好意をもって、自分を辱め、母親の恥を曝しているのをこのわたしが知らないとでも思っているのか! よいか、エッサイの子が地上にいる限り、お前とお前の王権が堅く立てられることは決してないのだ。すぐにダビデを捕らえて来い。彼は死に定められている」
 ヨナタンも激しく高ぶり、彼も席を蹴って応酬した。
「父上、なぜですか。彼が何をしたというのですか。どうして彼は死ななければならないのですか!」
「死ななければならないのだ!」
 サウルの怒りはさらに増し、王は槍を取ってヨナタンに投げつけた。新月祭の食卓は騒然となり、食卓は滅茶苦茶になった。このことでヨナタンはひどく傷つけられ、食事もせずに出て行った。
 翌朝、ヨナタンは従者一人を連れて、ダビデと約束した野原に出て行った。そして約束どおりに矢を射た。矢は従者の前に落ちた。ヨナタンは大きな声で言った。
「矢はお前の先にある」
ダビデは隠れ場から出て来て、三度身をかがめた。そして二人は互いに口づけをして泣き出した。ダビデのほうが激しく泣いた。
「許してくれ、ダビデ。とても残念だ」
「いいえ、ヨナタン、あなたのせいではありません。王のお気持ちが変わるまでわたしは去ります」
「安らかに行ってくれ、ダビデ。しかしわたしたちの間には、神エホバが永久におられる。わたしの子孫とあなたの子孫との間にも神エホバがおられる。わたしたちが誓い合った愛は変わらない」
「はい」
 ダビデは咽び泣きながら頷いた。
「行ってくれ、ダビデ。あなたには神が共におられる」
 ヨナタンダビデの肩を押した。ダビデは三度振り返って原野のなかを走り去った。
ダビデ……父を許してくれ」
 ダビデの後ろ姿を見送りながら、ヨナタンも地に崩れ折れて激しく泣いた。そして従者が持って来た矢を折って捨てた。

 
  二 逃亡生活の始まり


ヨナタンはサウルの下に戻り、逃れて行ったダビデは、ノブの幕屋で仕えていた大祭司アヒメレク(大祭司エリの曾孫)の所へ逃れた。この時からダビデの長い逃亡生活が始まったのである。
 アヒメレクは、不意に現れたダビデを見て不安そうに言った。
「なぜお一人なのですか。供の者はいないのですか」
「王がわたしに一つのことを命じられましたが、そのことを誰にも気づかれるな、とおっしゃいましたので、従者とはある場所で落ち合うことになっております。それよりもパンがあるなら、幾つかいただけませんか。ほかにも何か食べるものがあるならいただけませんか」
 ダビデは空腹のまま逃げて来たのだった。
「あいにく手元に普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。あなたの従者が女を遠ざけているならばことですが」
「いつものことですが、出陣するときには女を遠ざけ身を清めております。今日はなおのこと、従者たちも身を清めています」
「それでは、召し上がってください」
 祭司は、聖別されたパンをダビデに与えた。さらにダビデはアヒメレクに求めて言った。
「あなたの手元に剣か槍がありますか。王の用事があまりにも急だったので、武器も持って来ることができませんでした」
「あります。エラの谷であなたが討ち取ったゴリアテの剣があります。それでよければ持って行ってください」
「それに勝るものはありません。それをください」
 その日、その場にサウルの家臣でエドム人ドエグという名の兵士がおり、彼は二人の会話の一部始終を見聞きしていた。ダビデはそれを知っていたが、敢えてドエグを避けようとはしなかった。
 ゴリアテの剣を手にしたダビデは、アヒメレクのもとを去り、その日のうちに、いつもは敵対関係にあるペリシテ人、ガトの王アキシュの下へ行った。それがサウルから逃れるいちばんの安全圏だと思えたからである。アキシュの僕たちは言った。
「この男は、あの地の王ではないか。サウルは千を討ち、ダビデは万を討ちと歌われた人だ。ゴリアテを打ち倒したのはこの者ではないのか?」
 それでダビデは捕らえられた。しかしダビデは、気が狂った振りをし、ひげによだれを垂らし、城門の扉をかきむしって奇声をあげた。これを見た王アキシュは僕たちに言った。
「見ろ、この男は気が狂っているではないか。ダビデであるはずがない。なぜこんな男を連れて来たのだ。わたしのもとに気が狂った男が不足しているとでもいうのか。こんな男をわたしの家に入れるとでもいうのか」
 ダビデは必死だった。サウルから逃れるためには何でもしなければならなかった。しかし結局のところガトからも追放された。それでもダビデと見破られなかったことだけでも幸いだった。それで今度は、アドラムの洞窟へ逃れて行った。そこはエルサレムから西南西に二六キロほどの位置にあり、石灰岩の尖った洞窟が並び立つ荒涼とした地だった。そこに立ったダビデは、この広い大地に、神から油注がれていながら、その身ひとつ横たえる場所がないことを知って慄然とした。どうして? なぜ? 自分が何をしたというのですか…。その時の気持ちを次のように詩っている。

  指揮者によって。「はるかな沈黙の場」に合わせて。
ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕らえられたとき。

神よ、わたしを憐れんでください。
 わたしは人に踏みにじられています。
戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
陥れようとする者が
   絶えることなくわたしを踏みにじります。
高くいます方よ
多くの者がわたしに戦いを挑みます。
   神の御言葉を賛美します。
   神により頼めば恐れはありません。
   肉に過ぎない者が
わたしに何を成し得ましょう。
 
 わたしの言葉はいつも苦痛となります。
 人々はわたしに対して災いを謀り
 待ち構えて争いを起こし
 命を奪おうとして後をうかがいます。
 彼らの逃れ場は偶像に過ぎません。
 神よ、怒りを発し
    諸国の民を屈服させてください。
 ………
 神に依り頼めば恐れはありません。
 人間がわたしに何を成し得ましょう。
 ………
 あなたは死からわたしの魂を救い
 突き落とされようとしたわたしの足を救い
 命の光の中に
    神の御前を歩かせてくださいます。(詩編五六:二―八、一二、一四)

 戦いたくないのに、いつも争いを起こす者が待ち構えており、絶えず命を狙われている。その理不尽な逆境のなかでも、ダビデの信仰は揺るがなかった。なおも神を賛美し、神に依り頼んだ。人間が人間に何を成し得よう。これがダビデの信仰であった。
このとき、ダビデがアドラムの洞窟へ逃れたことを伝え聞いた両親や、彼の兄弟たち、エッサイの一族の者たちは皆ダビデの下へやって来た。他にも生活に困窮している者や、サウルに不満を抱いている人々も集まって来た。その数はたちまちにして四百人に膨れ上がった。しかし年老いた両親を伴って洞窟から洞窟へと逃亡するのは難しいことだ。ダビデは、今度はモアブのミツバへ行き、その王の下へ行って言った。
「神エホバが、わたしをどうなさるのかがはっきり判るまで、どうか両親をここに留めてください」
まさしくダビデの将来は、彼に油注がれた神エホバの御意志一つにかかっていたのである。そのことをだれよりもよく認識しているダビデであった。モアブの王は答えて言った。
「安心して行きなさい。あなたの神があなたと共におられますように」
 モアブ人はアブラハムの甥ロトの子孫である。したがって元々はイスラエル人と血縁関係にあったが、歴史のなかではイスラエルを激しく憎んできた民だった。イスラエルの民がエジプトから脱出してカナンの地に入ろうとしていた際にも、快く助けることをしなかったので神から何度も罰せられている。しかしこの時のダビデは、そのようなモアブの王にすら頼らねばならなかった。そしてどこよりもそこが完全な隠れ場だった。
 モアブの王に両親を託したダビデは、彼を慕い、どこまでもついて来る民たちと共に、また洞窟から洞窟へと逃げさまよった。
   
指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。
ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。

憐れんでください、
 神よ、わたしを憐れんでください。
 わたしの魂はあなたを避けどころとし
 災いの過ぎ去るまで
    あなたの翼の陰を避けどころとします。
 いと高き神を呼びます
 わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
 天から遣わしてください
 神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。
 わたしを踏みにじる者の嘲りから
    わたしを救ってください。

 わたしの魂は獅子の中に
 火を吐く人の子らの中に伏しています。
 彼らの歯は槍のように、矢のように
 舌は剣のように鋭いのです。
  
  神よ、天の上に高くいまし
  栄光を全地に輝かせてください。

 わたしの魂は屈み込んでいました。
 彼らはわたしの足もとに網を仕掛け
 わたしの前に落とし穴を掘りましたが
 その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

 わたしは心を確かにします。
 神よ、わたしは心を確かにして
 あなたに賛美の歌をうたいます。
 目覚めよ、わたしの誉れよ
 目覚めよ、竪琴よ、古都。
 わたしは曙を呼び覚まそう。

 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し
 国々の中でほめ歌をうたいます。
 あなたの慈しみは大きく、天に満ち
 あなたの真は大きく、雲を覆います。

 神よ、天の上に高くいまし
 栄光を全地に輝かせてください。(詩編 五七:一―一二) 
 
神の憐れみを望みながらも、神を賛美することを止めないダビデ。どんな逆境におかれても、神を愛し、信頼し、信仰を保つ強さがダビデにはあった。これこそ神が終生ダビデを愛されたゆえんであった。また、洞窟に逃れていたときにも感謝の祈りを捧げるダビデだった。

 マスキールダビデの詩。
ダビデが洞穴にいたとき。祈り。

声をあげ、主に向かって叫び
 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。
 御前にわたしの悩みを注ぎ出し
 御前に苦しみを訴えよう。

 わたしの霊がなえ果てているとき
 わたしがどのような道に行こうとするか
    あなたはご存知です。
 その道を行けば
    そこには罠が仕掛けられています。
 目を注いで御覧ください。
 右に立ってくれる友もなく
 逃れ場は失われ
 命を助けようとしてくれる人もありません。

 主よ、あなたに向かって叫び、申します
『あなたはわたしの避けどころ
 命あるものの地で
   わたしの分となってくださる方』と。
 わたしの叫びに耳を傾けてください。
 わたしは甚だしく卑しめられています。
 迫害する者から助け出してください。
 彼らはわたしよりも強いのです。
 わたしの魂を枷から引き出してください。
 あなたの御名に感謝することができますように。(詩編一四二:一―八)

避難、逃亡していたときのダビデには、最後には三千人の部下たちが付いてくるようになった。しかしダビデには、右に立ってくれる友もなく、逃れ場もなく、命を助けてくれる人もいなかった。むしろ増えていく部下やその家族たちに対する責任は大きくなるばかりで、リーダーとしてのダビデは非常に孤独であった。そんなダビデの避けどころは唯一神だけであり、ダビデは心底、神と共に歩んでいた。

 

第四章 サウルの追跡

 
   一 荒野をさまようダビデ 


 ダビデと部下たちの、荒野における要害から要害へ逃げ惑う生活は非常に厳しいものだった。日々膨れ上がっていく部下たちの世話、食糧の調達、寒暖の激しい気候に備えての衣服など必要不可欠な問題が山ほどあった。夜も温かい布団にくるまって安眠できるわけではない。剣や槍を枕にして、絶え間ない命の危険に曝されて荒野の洞窟を渡り歩くことがどんなに過酷なものであったかは想像に余りある。加えて獣の危険や、季節ごとに発生する虫の襲来、風雨嵐に遭う日々もあったであろう。それらのすべてに耐えていたダビデ。油注いでくださった神が自分をどのようにしてくださるのか、彼にはまったく見えてこないのだった。
そのような時、預言者として活躍していたガドが言った。
「要害ばかりに留まっていてはなりません。ユダの地に出て行きなさい」
ガドの助言にしたがって、ダビデはハレトの森に移動した。そのことはすぐにギブアのギョリュウの木陰に座っていたサウルの耳に伝えられた。その傍らには家臣たちが立ち並んでいたが、サウルはいら立ち、槍を手にして言った。
「ベニヤミンの子らよ、聞くがよい。エッサイの子がお前たちに畑やぶどう畑をくれるだろうか。お前たちを千人隊長や百人隊長にしてくれるだろうか。お前たちは一団となってわたしに背き、わたしの息子とエッサイの息子が契約を結んでいてもわたしに報せもしなかった」
 サウルは、息子ヨナタンの心が常にダビデと共にあるのを知っており、そのことに非常に腹を立てていたのである。それを聞いていたエドム人ドエグが言った。
「王様、わたしは見ました。ノブにいるアヒトブの子アヒメレクのところにダビデは来ました。するとアヒメレクはダビデのためにエホバに伺い、食糧を与え、おまけにペリシテ人ゴリアテの剣さえ与えました」
「何だと! 祭司アヒメレクがダビデのために神の宣託をし、食糧や剣を渡したというのか!」
「はい、王様」
「祭司アヒメレクを呼べ!」
 こうしてサウルは、アヒメレクとその父の家の者全員を呼び出して言った。
アヒトブの子アヒメレクよ、聞くがよい」
「はい、王様」
「お前はなぜ、エッサイの息子と組んで私に背くのか。なぜ逃亡中の彼にパンや剣を与えたのか。そのうえ、わたしに報せることもなく彼のためにエホバに伺い、なぜわたしを狙わせるようなことをしたのか」
「王様、生きている神エホバに誓って申し上げますが、ダビデもわたしも、あなたに背くようなことは何もしておりません。王様、ダビデほど忠実な者が他にいるでしょうか。彼は王様の婿、護衛の長、あなたの家で尊ばれている者ではありませんか。わたしはダビデが王様の下から逃亡して行く途中などということは何も知らなかったのです。どうか、僕と父の全家に無実の罪を帰せられませぬように」
「黙れ、アヒメレクよ、お前も父の家の者も皆、死罪だ」
サウルの、ダビデに対する妬みと憎しみは頂点に達しており、悪い霊が彼を覆いつくしているのだった。ただちに側に立っていた近衛の兵士に命じて言った。
「エホバの祭司たちをみな殺せ!」
 しかし、近衛の兵士たちはだれひとり、祭司を討とうとする者はいなかった。すると王はエドム人ドエグを指さして命じた。
「お前が討ちかかれ。祭司たちをみな殺せ!」
 ドエグは、剣を取ると、亜麻布のエフォドを着けた八五人の祭司たちをその場で殺した。さらに、祭司の町ノブへ出掛けて行って、そこの住人である男も女も子どもも乳飲み子も、牛もロバも羊も、生きているあらゆるものを剣にかけて殺した。その災難の中、ただ一人、アヒメレクの息子アビアタルだけが逃れ、ダビデの下に走ってそのことを告げた。
ダビデは天を仰いで言った。
「わたしの責任です。すべてわたしが悪いのです。わたしがあなたの父上の家の者のすべての命を奪いました。わたしがアヒメレクの下へ行ったときに、ドエグが来ており、わたしとアヒメレクが交わしている会話を聞いていることをわたしは知っていました……。それで、彼は必ずサウルに伝えるだろうとも思っていました。許してください。あなたはしばらくここに留まっていなさい。わたしの命を狙う者はあなたの命をも狙うのです」
 
 その頃、またもペリシテ人イスラエルの領土であるケイラを襲った。収穫したばかりの脱穀物を略奪していたのである。そこでダビデはエホバに伺って言った。
「神よ、わたしはペリシテ人を討つべきでしょうか」
 するとエホバは言われた。
「行け。ペリシテ人を討ってケイラを救え」
 それを聞いた兵士たちは言った。
「わが主よ、我々はサウルに追われていて、このユダの地にいてさえ恐れているのです。ケイラまで行ってペリシテ人と戦うのですか」
 そこでダビデはもう一度エホバに伺った。エホバは答えられた。
「ケイラに行って戦え。わたしはペリシテ人をあなたの手に渡す」
 ダビデとその部下たちはケイラに下って行って戦った。神はダビデと共におられたので、ペリシテ人に大打撃を与えてケイラの住民を救った。
 他方、ダビデがケイラにいるとの情報を得たサウルは言った。
「神が、ダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は扉とかんぬきのある町に入った。自らを閉じ込めてしまったのだ」
 サウルは好機とばかり、兵士全員を召集し、ケイラの町を包囲しようと画策した。それを聞いたダビデは、祭司アビアタルにエフォド(祭司の衣装。大祭司の衣装は、モーセに対する神の指示によって作られた。「金、青糸と赤紫に染めた羊毛、えんじむし緋色の物と上等のより亜麻」で、刺繍師の手によって作られた。)を持って来させて、エホバに尋ねた。
イスラエルの神エホバよ、サウルがケイラに来て、わたしのためにこの町を滅ぼそうとしています。ケイラの有力者たちはわたしをサウルに引き渡すでしょうか」
 どんなことでもダビデは神に頼り、神の命に従った。それが諸国民の王とは異なる点で、イスラエルの王は、比喩的に言って「エホバの王座」にあったのである。したがって祝福も呪いも、神に対する信仰と掟を守るか否かにかかっていた。
 エホバは答えて言われた。
「ケイラの人たちは、あなたをサウルに引き渡す」
 それでダビデとその兵士六百人は、立ち上がってケイラの町を出て行き、また、あちこちとさまようことになった。そしてジフの荒野の山地ホレシャに留まった。するとジフの
人々がギブアに上って来て、サウルに報せた。
「王様、早く下ってきてください。王が捜しておられるダビデがジフの荒野の南方ハキラの丘にあるホレシャの要害に隠れています。彼を王の手に引き渡すのは我々の仕事だと思ったので、急いで駆けつけました」
「そうか、よく報せてくれた。わたしのことを思ってくれたのはあなたたちだけだ。しかしさらによく確かめてくれ。彼は非常に賢い。砂漠のどの場所のどの洞窟に隠れているのかをよく調べて、確かな情報をもって来てくれ。そのうえでわたしはあなたたちと共に出て行こう。イスラエルにいるのであれば、わたしは全氏族の中からでも、のみ一匹見落とすことなく捜し出す」
 サウルの執念が弱くなることはなかった。彼は部下たちを連れ、ダビデを追ってホレシャに向かって出陣した。その間隙をぬって、サウルの息子ヨナタンは、命の危険を冒して、一足先にダビデがいるホレシャの要害に来て言った。
「恐れることはありません、ダビデ。父サウルの手があなたに及ぶことは決してありません。神はあなたと共におられるからです。イスラエルの王となるのはあなたです。わたしはあなたに次ぐ者となるでしょう。父サウルもそのことをよく知っています」
ヨナタンは、ダビデを励ました。王の息子であり、ダビデよりも三十歳も年上であったから、次の王位を狙うのは当然のことだった。しかし彼は野心的でなく、物事を理性的に捉えることができる人で、ダビデこそ神から選ばれて王になるべき人であると、誰よりも強く確信していたのである。
ヨナタン、ほんとうにありがとう」
ダビデは、ヨナタンの両手を握って泣いた。あの弓の矢を射た原野で別れて以来の再会であった。ヨナタンの気持ちが、神の御前で約束したあの時と少しも変わっていないことを知ってダビデも泣いた。
ヨナタン、あなたとわたしがこんな出会い方をしていなかったらどんなにか良かったことでしょう。いつまでも神の御前を共に歩むことができたのに」
ダビデ…、父を許してやってくれ。きっと神が裁いてくださる」
 二人は口づけをして、互いの肩を強く抱きしめて泣いた。ゆっくり語り合っている時間はなかった。
ダビデ、早く!」
ヨナタンの報せを受けて、ダビデは急いで別の要害へ移動しなければならなくなったのである。従者を連れて足早に去って行くヨナタンを、ダビデは岩陰からいつまでも見送っていた。
ヨナタン、ありがとう」
 ダビデヨナタンの熱い友情に心を揺さぶられていた。このたびは、サウルの追跡に強い危機感をもったヨナタンが、命を賭けてサウルの陣営をぬけ出して通報してくれたのである。決して変わらないヨナタン。しかし互いの気持ちを伝え合う時間もなく、もう二度と会うこともないだろうことを予感しての別れだった。
ヨナタンは二度振り返って父サウルの陣営に帰り、ダビデは砂漠の南方マオンの荒れ野の岩場へと逃れて行った。こうしてダビデは、危機一髪、サウルの裏をかいて逃げ延びることができたのだった。それで、ジフの住人に案内されて出陣したサウルが、目的地に着いたときには、ダビデはもうホレシャの要害にいなかった。サウルは悔しがり、さらにマオンの荒れ野にダビデを追跡した。このときサウルは、山の片側を行き、ダビデとその兵士たちは反対側の山を行った。追うサウルも、逃れるダビデも必死だった。サウルはこの機会を逃してはならないと、数において比較にならない兵士を動員して、ダビデとその兵士たちを包囲した。そしてサウルは身勝手にもこの度は神がダビデを渡してくださる、と言った。ところがその時、一人の使者がサウル王の前に跪いて言った。
「王様、急いでお帰りください。ペリシテ人が襲撃して来ました」
「なぜ、この時なのだ!」
 サウルは剣を振って悔しがったが、ペリシテ軍を放っておくこともできない。彼はダビデを捕らえるのは次の時と決めて、ペリシテ軍の方へ方向転換をせざるを得なかった。ダビデはまたも危ういところを救われたのだった。そのようなことがあってこの場所は、後々までも、「分かれの岩」と呼ばれるようになった。
 
 指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ジフ人が来て、
サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。

神よ、御名によってわたしを救い
力強い御業によって、わたしを裁いてください。
神よ、わたしの祈りを聞き
この口に上る願いに耳を傾けてください。
異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命を狙っています。
彼らは自分の前に神を置こうとはしないのです。

見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。
わたしを陥れようとする者に災いを報い
あなたのまことに従って
  彼らを絶やしてください。
主よ、わたしは自ら進んで生贄をささげ
恵み深いあなたの御名に感謝します。
主は苦難から常に救い出してくださいます。
わたしの目が敵を支配しますように。(詩編 五四編)
 ダビデの不当で長い苦難の道は、ほんとうに容易ならざるものだった。理不尽で納得できることではなかったからである。もしも彼の神に対する強い信仰がなかったなら、その苦しみに耐えることも救われることもなかったであろう。耐えるのではなく、戦って勝つことに注意を向けたことであろう。そのようにしようと思うなら、ダビデにはその力が十分にあったからである。しかしそれは神の民のやり方ではなく、異邦人のやり方であった。何であれ、自分の力で戦い、自分の力で勝ち取る、それが無力な物言わぬ偶像を神々とする王たちのやり方である。しかし、イスラエルの神は生きており、善と悪を正しく裁き、敵も味方もなく、すべてを公正に裁かれる神だった。そのことに確信をおいていればこそダビデは、すべてのことに忍耐できたのである。古代イスラエルの偉大な指導者であったモーセヨシュアも、生きて活動する神エホバへの信仰と共に歩んだからこそ成功したのだった。そして彼らの足跡そのものがイスラエルの歴史をつくってきたのである。神を信じない者でも、その歴史の事実と真実を否定することなどだれにもできない。けれども公正なる神は、そのイスラエルの民が、神の保護や恵みゆえに存在していたことを忘れて、高慢になり、神への信仰を棄てとき、彼らを強く罰せられた。それも彼らの消すことのできない歴史の真実である。


  二 「わたしは神が油注がれた者を殺さない」

 
間一髪、危機的状況を脱したダビデは、「分かれの岩」を後にして、エン・ゲディの要害へ移って行った。その地は、死海に近く窪地になっていたために、亜熱帯性の植物が繁茂し、人が容易に近づけないところだった。しかしまたも、ダビデがそこに隠れているとサウルに告げる者がおり、ペリシテ人を撃退して帰還したサウルは、今度こそはと、ダビデを追ってエン・ゲディにやって来た。この度は一気に決着をつけんものと、イスラエルの全軍から選りすぐった兵士三千人を率いていた。その先頭に立って、「山羊の岩」の付近へ向かった。そして途中の羊の囲い場(夜間に羊を入れる所)の辺りにさしかかったとき、サウルは用を足すために一つの洞窟に入って行った。しかし奇しくも、その洞窟の奥には何とダビデとその兵士たちが隠れていたのである。それでダビデの兵士が言った。
「ご覧ください。神エホバが『わたしはあなたの敵をあなたに渡す。自分の思い通りにするがよい』と言われたのは、この日のことではありませんか」
 ダビデは立ち上がって行き、サウルの上着の裾をそっと切り取った。しかしダビデはすぐにそのことで後悔し始めた。それでサウルに襲いかかろうとはやる部下を制して言った。
「ああ、わたしは間違っていた。わたしの主君であり、神が油注がれた方にこのようなことをするなど、神エホバは決して許されない」
 そしてダビデは、はやる兵士たちを説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルのほうは何も知らずに、用を足してそこを立ち去って行った。ダビデはその後を追って洞窟を出ると、背後からサウルに呼ばわって言った。
「我が主なる王よ!」
 サウルが振り返ると、ダビデは地に額をつけて三度平伏した。さらに言った。
「我が主なる王よ、あなたはどうして、『ダビデはあなたに危害を加えようとしている』などと言う噂話に耳を傾けられるのですか。ご覧ください、エホバが今日、洞窟の中であなたをわたしの手に渡されました。あなたもそのことを御自身の目でご覧になりました。ある者は、あなたを殺そうと言いましたが、わたしは言いました。『わたしはわたしの主君に向かって手を出すことはしない。その方は神が油注がれた方だから』と。我が父よ、よくご覧ください。あなたの袖なしの上着の切れ端がわたしのこの手の中にあります。わたしはこれを切り取った時、あなたを殺さなかったのです。わたしの手には悪事も背きもありません。わたしはあなたに対して罪を犯しませんでした。にもかかわらずあなたは、絶えずわたしの命を奪おうと追跡されるのです。エホバがあなたとわたしの間を裁き、神があなたに報復をしてくださいますように。古い諺に、『悪は悪人から出る』と言いますが、わたしはあなたに手を下すことは致しません。イスラエルの王よ、あなたは誰を追って出てこられたのですか。だれを追跡されているのですか。死んだ犬ですか。一匹の蚤ですか。神がわたしとあなたの間を裁いてくださり、わたしの訴えを弁護してくださり、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」
 サウルは、その声がダビデであると気づいて言った。
「我が子、ダビデでよ、お前の声か」
「はい、我が主なる王よ」
 サウルは声をあげて泣き出した。
「お前は正しい。お前はわたしに善いことをしてくれたのに、わたしはお前に悪いことをしてきた。そしてお前は今日、わたしに善意を尽くしてくれた。確かに神エホバは、今日、わたしをお前の手に渡されたのだ。だが、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会いながら、その敵を無事に去らせる者がいるだろうか。お前はわたしにそのようにしてくれた。このふるまいに対して、神はお前に恵みをもって報いてくださるであろう。ダビデよ、今わたしは悟った。お前は必ずイスラエルの王になり、イスラエル王国はお前の手によって確立されるだろう。エホバによってわたしに誓ってくれ。わたしの後々までの子孫を断たないと約束してくれ。わたしの名を父の家から消し去ることはない、と誓ってくれ」
「我が主、王よ、僕は誓います」
 ダビデがそう答えると、サウルは弱々しい目でダビデを見た。それはあの自信に溢れた傲慢なサウルの姿ではなかった。神の霊を失ってからのサウルは、異邦人の王たちのように、権力にしがみつくただの人間だった。サウルは去って行き、ダビデと兵士たちは再びエン・ゲディの要害に上って行った。その時、ダビデは次のように祈っている。

  指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。
主がダビデのすべての敵の手、また、サウル
の手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。

 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
 主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 賞むべき方、主をわたしは呼び求め
 敵から救われる。

 死の縄がからみつき
 奈落の激流がわたしをおののかせ
 陰府の縄がめぐり 
 死の網が仕掛けられている。
 苦難の中から主を呼び求め
 わたしの神に向かって叫ぶと
 その声は神殿に響き
 叫びは御前に響き
 叫びは御前に至り、御耳に届く。

主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。
山々の基は震え、揺らぐ。
御怒りに煙は噴き上がり
御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。
主は天を傾けて降り
密雲を足元に従え
ケルブを駆って飛び 
風の翼に乗って行かれる。
周りに闇を置いて隠れ家とし
暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。
御前にひらめく光に雲は従い
雹と火の雨が続く。
主の矢は飛び交い
稲妻は散乱する。
主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し
あなたの怒りの息に世界はその基を示す。
 
 主は高い天から御手を遣わしてわたしを捕らえ
 大水の中から引き上げてくださる。
 敵は力があり、
 わたしを憎む者は勝ち誇っているが
 なお、主はわたしを救い出される。
 彼らが攻め寄せる災いの日
 主はわたしの支えとなり
 わたしを広いところに導き出し、助けとなり
 喜び迎えてくださる。

 主はわたしの正しさに報いてくださる。
わたしの手の清さに応じて返してくださる。
わたしは主の道を守り
 わたしの神に背かない。
 わたしは主の裁きをすべての前に置き 
主の掟を遠ざけない。
わたしは主に対して無垢であろうとし
罪から身を守る。
主はわたしの正しさに応じ返してくださる。
御目に対してわたしの手は清い。

あなたの慈しみに生きる人に
   あなたは慈しみを示し
無垢な人には無垢に
清い人には清くふるまい 
心の曲がった者には背を向けられる。
あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし
神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし
わたしの神によって、城壁を越える。

神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に
  主は盾となってくださる。

主のほかに神はいない。
神のほかに我らの岩はない。
神はわたしに力を帯びさせ
神はわたしの道を完全にし
わたしの足を鹿のように速くし 
高い所に立たせ
手に戦いの杖を教え
腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
  わたしを強い者としてくださる。
わたしの足は大きく踏み出し
くるぶしはよろめくことがない。 
敵を追い、敵に追いつき
滅ぼすまで引き返さず
彼らを討ち、再び立つことを許さない。
彼らはわたしの足元に倒れ付す。
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
刃向かう者を屈服させ 
敵の首筋を踏ませてくださる。
わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。
彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
主に向かって叫んでも答えはない。
わたしは彼らを風の前の塵と見なし
野の土くれのようにむなしいものとする。
あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。
わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聴き従い
敵の民は憐れみを乞う。
敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの神をあがめよ。
わたしのために報復してくださる神よ
諸国の民をわたしに従わせてください。
敵からわたしを救い
刃向かう者よりも高く上げ
不法の者から助け出してください。
主よ、国々の中で
  わたしはあなたに感謝を捧げ  
御名をほめ歌う。
主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
  慈しみのうちにおかれる。(詩編 一八編)

 これは単にイメージをふくらませてつくられた詩ではない。風前の灯火のようなダビデ逃亡の日々の現実をうたったものである。サウルに追われて、要害から要害へと移動し、岩場の上を鹿のように跳び走り、岩の頂から弓矢を放って敵から逃げなければならなかた日々、それでも神を信頼して止まなかった気持ちを言葉にしたものである。そしてその要害に身を潜めていたダビデを実際に救ったのは、神エホバであった。知恵や力や勇気を与えてくれたのも神であった。目に見えないものをどうして頼れるのか、という人もいるかも知れないが、実際には、すべてを統御しておられる神は、必要なときには強力な御使いを用いられたのである。それでダビデは、神はケルブ(特別な任務をもつ高位の天使)を駆って、その翼に乗って飛んで来てくださった、と述べることができたのだった。これが単なる物語であるなら、ほんとうに救われることはなく、ダビデの数奇な人生はなかったであろう。また、実際に経験しなければこのような詩を書くことはできない。天地の創造主である神は、雲や雨、雹や稲妻、雷鳴、闇や光など、自然界を用いてもダビデを保護することができた。考えてもみるがよい。一国の国王が、たった一人の無防備な裸の青年を捕らえるために、軍隊を用いて全力で追跡したのである。しかもそれは七年にも及んだ。それでも捕らえることができなかったのは、偶然の幸運だったのだろうか。ダビデ自身が祈りのなかで述べているように、それはまさしく神の力による以外のなにものでもなかった。だからこそ彼は、『神よ、無実のわたしがどうしてこんな苦しみに遭うのですか』と訴えるのではなく、『わたしはすべての裁きをエホバの前に置き、神エホバの掟を遠ざけない』と心を込めて祈ることができたのである。自分にとって良くても悪くても、神の義に全幅の信頼をおいていたからこそできる祈りだった。
 このような経験を積み重ねながら、ダビデと部下たちは、エン・ゲディからパランの荒野に下って行った。そこはイスラエル国民が約束の地に入るまで三十八年間放浪した荒野である。主にシナイ半島の中央と北東の地域、死海に向かってチンの荒野につながっている。ダビデは、父祖たちが流浪していたときのことを思ったことであろう。しかしそれは、民自身が犯した罪の結果であった。ダビデの場合、神から油注がれ、イスラエルの王となるしるしを受けていながらの苦境であった。ダビデの信仰は、このサウルから追われていたときにこそ培われ、また神に義を示す機会となったのであった。
人生のなかでも大きな苦難に遭遇していたそのとき、重ねて悲しいことがあった。若くして預言者となり、ダビデに油注いだサムエルが亡くなったという報せである。最初に逃げていったのもサムエルのところだった。その後にも、サムエルこそはダビデを導いてくれる人だった。ダビデはサムエルの死を心から悲しんだ。彼はついに、ダビデが王になるのを見ることがなかった。ダビデはひとり岩陰に立って天を仰いで涙を流した。それは羊飼いの少年であったときにいつも見上げていた美しい星空が広がっていた。それなのに今自分は、その同じ空の下を生きのびるために逃げ回っている。自分の身にいったい何が起きているのか分からなかった。神はわたしをどうしようとしておられるのだろうか? ダビデにその答えは未だ見えてこないのだった。


  三 アビガイルとの出会い


ダビデがパランの荒野を流浪していたころ、一人の男がマオン(ユダの山地にあった都市)に住んでいた。彼は非常に裕福で、羊を三千匹、山羊一千匹を所有していた。男の名はナバル、妻の名はアビガイルと言った。妻は美しくて聡明であったが、夫のナバルは粗暴で欲深く行状も悪かった。一時期、ダビデとその部下たちは、そのナバルが羊を放牧している地域に住んでいたことがあった。そのとき彼らは、羊や羊飼いたちの外的な壁となって何かとナバルの羊たちを保護することに尽力してきたのだった。そのようなことがあったので、羊飼いが羊の毛を刈る時期が来た時、ダビデは若者たち十人をナバルの下に遣わして、こう言わせた。
「あなたと、あなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの羊飼いはわたしの部下たちの下にいましたが、彼らを侮辱したこともなく、彼らがカルメルに滞在していた間にも、あなたの物でなくなったものは何もなかったでしょう。わたしの従者があなたのご厚意に預かれますように。どうか、お手元にあるものを僕たちとダビデにお分けください」
 ところが、ナバルはこのように答えた。
「ふん、ダビデとは何者だ。エッサイの子が何者だというのだ! サウルのもとを逃げ出した奴隷に、どうしてわたしのパン、わたしの水、この祝いの日のために準備したわたしの肉を与えなければならないのだ! 素性の知れぬものにわたしの肉を与えるわけにはいかない」
従者たちは、ダビデの下に帰ってそのとおりに伝えた。ダビデは激怒して命令した。
「各々が自分の剣を帯びよ。わたしたちは荒れ野であの男のものをみな守り、何ひとつなくならないようにと気を配っていたが、それは全く無益なことであった。彼は善意に悪をもって報いた。明日の朝までにナバルとその従属の者が生き残っているなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださいますように」
 そして、腰に剣を帯びた四百人の部下たちは、ダビデを先頭にして進んで行った。残りの二百人は荷物の番人として留まった。
 他方、ナバルのほうでは従僕の一人がナバルの妻にそっと告げて言った。
「かのダビデが、御主人さまに祝福を述べるために荒れ野から使いをよこされました。でも御主人さまは彼らをののしって追い返されたのです。しかしあの方たちは実にご親切な方々で、わたしたちが羊や山羊を放牧していた時も、牧場を移動して行った時にも、夜昼いつもわたしたちの防壁となってくださり、わたしたちは何一つ損なうことなく、失ったこともありません。むしろ何度も保護の役割を果たしてくださったのです。それなのに御主人さまは彼らに何一つ感謝を示されませんでした。今に、この家に災いが降りかかることでしょう。しかし御主人さまはあのようにならず者でいらっしゃいますから、だれも話しかけることができません。どうか、奥様、今どうすべきかをしっかりとお考えになってください」
 それを聞いたアビガイルは、夫ナバルには何も言わずに、ただちに、パンを二百個、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊を五匹、炒った麦を五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子二百などをロバに積んで従僕に命じた。
「急いで案内しなさい。その方の下へ早く!」
 ロバの背に揺られながら、アビガイルの気持ちは焦った。
「間に合えばよいけど……」
そして山陰に沿って急いでいると、ちょうど真向かいから怒りに駆られたダビデとその兵士たちが剣を持って駆け上って来るのに出合った。
 アビガイルは急いでロバを下り、地に額をつけてダビデの前にひれ伏した。そして言った。
「我が主よ、このわたしにおとがめがありますように。どうかこのはした女の話に耳をお傾けください。夫ナバルはどうしようもない男なのでございます。ナバル(無分別、愚鈍なという意味)という名前のとおり、愚か者なのでございます。はした女はあなたがお遣わしになった使者の方にお会いすることができませんでした。神エホバは生きておられ、あなた御自身も生きておられます。それで今エホバは、あなたを引き止め、あなたの手が流血の罪に陥ることがないようにあなたを守られました。ここにお持ちしました品物は我が主であるあなたの従者への贈り物でございます。どうかこのはした女の失礼をお許しくださいませ。神エホバは、我が主のために必ず永続する家を興されます。あなたは神エホバの戦いを戦っておられるのですから、生涯あなたに悪いことが訪れるということはないでしょう。人が我が主に逆らい、お命を狙って追跡してきても、あなたの命は神エホバの命の袋の中に収められています。敵の命こそ、神によって石投げ紐によって仕掛けられ投げ飛ばされることでしょう。また、神が約束なさったすべてのことが成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流し、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきやお心の責めとなりませんように。エホバが、我が主を祝福されるとき、このはした女のことを思い出してくださいませ」
 ダビデはアビガイルに答えて言った。
イスラエルの神エホバが讃えられよ。エホバは今日、あなたをわたしに遣わされた。あなたの分別は讃えられ、あなた自身も讃えられよ。わたしは怒りに任せて流血の罪を犯し、自分の手で復讐するところであった。それをあなたは止めてくれた。イスラエルの神エホバは生きておられる。エホバはわたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルには一人の従僕も残されていなかったであろう」
 ダビデはアビガイルの贈物を受け取り、彼女に言った。
「あなたに平和があるように。安らかに行きなさい。あなたの願いをわたしは確かに聴きいれた。あなたの助言を尊重しよう」 
「我が主よ、このはした女の言葉を御心に留めてくださったことを神に感謝します」
 再びロバに乗ったアビガイルは、従僕の後から夫ナバルがいる家に帰って行った。 
 帰ってみると、ナバルはまるで王の宴会でもあるかのように豪華な食事を並べ、上機嫌で、かなり酔っていた。それを見たアビガイルは一言も話さずにそこを去った。
 翌朝、日が昇るころ、アビガイルは昨日起きたことをすべてナバルに話した。するとナバルの顔は一気に青ざめていき、意識をなくした石のように固くなった。それから十日後、エホバはナバルを撃たれたので、彼は死んだ。彼の家の従僕たちは言った。
「どんなに富んでいても、神に対して富んでいないならこのようになるのだ」
 羊三千匹、山羊一千匹は人手に渡り、彼は神に撃たれて墓の中に下った。
そのことを聞いたダビデは言った。
「神は讃えられよ。エホバはナバルがわたしたちに加えた侮辱に裁きを下された。ナバルの悪はナバルの頭に返され、この僕にも悪を行なわないように止めてくださった」
 ダビデはただちに、カルメルにいたアビガイルの下に使者を遣わして言わせた。
ダビデはあなたを妻に迎えたいと言っておられます」
 アビガイルは立ち上がり、それから地に顔を伏せて身を屈めて答えた。
「光栄でございます。御主人さまの足を洗うはした女になります」
 それでアビガイルは、侍女五人を連れてロバに乗り、ダビデの下へ行って彼の妻になった。その時ダビデには、エズレル出身のアヒノアムを娶っていたのでダビデの妻は二人になった。最初の妻ミカルは、父サウル王に連れ戻されていたのである。


  四 再びサウルを容赦する


 パランの荒野でそのようなことがあった後、ダビデは再びジフの荒野に逃れていた。するとジフ人がまたもサウルの下に来て言った。
「王様、砂漠の手前のハキラの丘にダビデが隠れております。捕らえるなら今すぐ下って来てください」
「よく報せてくれた。神がお前たちを祝福されるように」
 サウルは、今度こそはダビデを殺す、それが自分に定められていることだと思い込み、軍隊の中から再び三千人の精鋭を選んでジブの荒野に下って行った。そしてハキラの丘に陣を敷いた。そのことを聞いたダビデも斥候を出して確認させた。戻って来た斥候は言った。
「サウル王は、確かに三千人の兵士を率いてハキラの丘に宿営しております」
 そこでダビデは大きな声で言った。
「サウルの陣地へわたしと一緒に行くのは誰だ!」
すると、ツェルヤ(ダビデの姉妹、もしくは異父姉妹)の子アビシャイ(ダビデの甥)が答えて言った。
「わたしです。わたしがあなたと共に行きます」
アビシャイはその兄弟、ヨアブ、アサエルと共にダビデの勇敢な戦士の一人だった。
「よし、行こう」
 夜になってから、二人はサウルの宿営に近づいて行った。サウルは横になって眠っており、彼の枕元には、槍が地面に突き刺してあり、水差しもその傍に置いてあった。警護の兵士たちは、サウルの軍の長アブネルを始め、みんなぐっすりと眠り込んでいた。
 アビシャイはダビデに言った。
「ご覧ください。神は、今日、サウルをあなたの手に渡されました。さあ、わたしの槍の一突きでサウルを殺させてください。必ず一突きで仕留めてみせます」  
 ダビデは答えて言った。
「いや、殺してはならない。彼は神が油注がれた方なのだ。その方に手を掛けて罪のないままでいられるだろうか。神エホバは生きておられる。エホバ御自身がサウルを撃たれるだろう。それは死の時が来てそうなるか、戦いに出て死ぬかは分からないが、必ずエホバが裁かれるだろう。だから神が油注がれた方に、わたしが手を掛けることはしない。そんなことをすれば神は決してお許しにならない」
 ダビデは、いつでも神の視点から物事を見据えていた。自分の命を何年も狙いつづけているサウルを殺すなら、それは罪になると考えたのである。他方サウルのほうは逆に、ダビデが油注がれており、自分の王位を脅かす存在であるからこそ、殺そうと思い定めているのだった。
 続けてダビデは言った。
「よいか、アビシャイ。今は、あの枕元にある槍と水差しだけを持って立ち去ろう」
 ダビデ自らサウルの宿営に忍び込み、サウルの枕元にあった槍と水差しをそっと取り上げた。そしてサウルの眠っている傍を静かに立ち去って行った。その様子を見ていた者も、気づいていた者も、目を覚ましていた者も、誰ひとりいなかった。エホバからの深い眠りが彼らを襲い、彼らはみんなぐっすりと眠り込んでいたのである。
 それからダビデは、宿営からかなり遠く離れた山の頂に立った。そこから大きな声で呼ばわった。
「アブネル! 聞こえないのか」
 アブネルは山の頂から聞こえてくる声に耳を澄ました。
「呼ばわっているのは誰だ!」
「アブネル、あなたは男ではないか。しかもイスラエルのなかであなたに比べられる勇猛果敢な戦士がいるだろうか。そのあなたが、どうしてあなたの主人である王を守れなかったのだ! 敵兵があなたの主人を殺そうと忍びこんだのにあなたは無防備に眠り込んでいた。あなたは不注意だ。エホバは生きておられる。あなたの行いは死に価する。神が油注がれた方であり、あなたの主人である方を守れなかったからだ。さあ、王の槍と水差しがどこにあるかを捜して見よ」
 目を覚ましたサウルも、宿営の外に出て来て言った。
「この声はわが子ダビデではないか!」
 ダビデは答えて言った。
「王なる我が主よ、わたしの声です」
 そして続けて言った。
「我が主、王よ、なぜわたしを追跡なさるのですか。わたしがあなたに対して何をしたというのでしょうか。わたしにどんな悪があるのでしょうか。我が主君である王よ、僕の言葉をお聞きください。もしエホバが、わたしに対して憤られるようにあなたを駆り立てておられるのでしたら、どうか神が捧げ物によってなだめられますように。しかしそれが人間から出ているのなら、エホバの御前で彼らが呪われますように。彼らはわたしに、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、神がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです。どうかわたしの血がホバの御前を遠く離れた地で流されませんように。まことにイスラエルの王は、山でシャコ(キジ科の鳥。やまうずら)を追うかのように、蚤一匹を狙って出陣されたのです」
 サウルは言った。
「わたしが間違っていた。わが子、ダビデよ、帰って来なさい。この日、わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した」
 ダビデは答えた。
「王の槍はここにあります。水差しもここにあります。王よ、従者を一人こちらに来させてこれを持ち帰らせてください。そしてエホバこそ、各々の正しい行いと忠実さに対して報いてくださいますことを知ってください。今日、エホバはあなたをわたしの手に渡されました。でもわたしは、エホバが油注がれた方に手をかけることを望みませんでした。それでご覧ください。わたしがあなたの命を大切にしたように、エホバもわたしの命を大切にしてくださいますように」
 ダビデは、その時の状況を、サウルを自分の手に渡してくださったのは神である、と思っていた。苦境の極地で出合った千歳一隅のチャンスであった。それにも関わらず、サウルを殺すことは望まなかった。ダビデの優しさである。彼は勇敢な戦士であったが、そのように誰もがもっていない神に愛される特質をもっていた。それに答えてサウルは言った。
「わが子ダビデよ、お前に祝福があるように。お前は必ず勝利するだろう」
 ダビデを憎み、ぜひとも殺さなければ、思っていたサウルであったが、心の底では、結局のところ神に祝福されているダビデが勝つ、ということをよく知っていたのである。
このことがあって後、再びダビデは、要害の岩場を鹿のように駆け上って行き、サウルは力なく宿営に戻って行ったのである。

 しかしダビデは思った。<このままではわたしはいつか、サウルの手にかかって死ぬことになるにちがいない。ペリシテ人の地に逃れるに越したことはない。そうすればサウルといえども、イスラエルの全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる>
 そしてダビデは、再び、イスラエルの敵地である、ガトの王、マオクのアキシュの下に逃れて行った、彼に従う兵士六百人とその家族、ダビデの二人の妻イズレアム人のアヒノアムと、カルメル人のナバルの妻であったアビガイルと一緒だった。
 アキシュは言った。
ダビデよ、安心して留まりなさい。サウルが我々の領地に侵入してくることはない。我々の守備は堅い。あなたはいつまでもガトに住みなさい」
 ダビデは答えて言った。
「もし、わたしがあなたの目に恵みを得ているのでしたら、どこかの町の一つに住まわせてください。どうして僕が王都に住んでよいでしょうか」
「では、ツィクラグに住みなさい」
王アキシュは、ダビデにツィクラグを与えた。そのためにこの町は、後々に至るまでユダの王に属する領地になった。そしてダビデたちがここに住んだ日数は、一年と四ヶ月であった。その間、ダビデとその部下たちは、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲撃した。彼らは昔からシュルからエジプトの地方の住人であり、神エホバに敵対する民だった。エホバは最終的にアマレク人の滅びを預言されていた。(民数記二四:二〇 出エジプト記一七:八―一六)ダビデは彼らを討つと、男も女も、羊も牛もロバもラクダも何一つ生かしてはおかず、すべての物を奪ってアキシュのもとに戻って来た。
アキシュはダビデに言った。
「あなたは今日、どこを襲撃したのか」
「ユダの南、エラフメエル人の南と、ケニ人の南です」
「どうしてあなたは一人の捕虜も引いて来ないのか」
「生き残った者が我々について、『ダビデはこのようにした』と言わせないためです」
 ツィクラグにいた間中、これがダビデのやり方であった。それでアキシュは心のなかで思った。<彼は疑いもなく、自分の民イスラエルからまったく嫌われ者になった。だから、いつまでもわたしの僕でいるだろう>
 その頃ペリシテ人は、イスラエルと戦うために全軍を集結させていた。それで王アキシュはダビデに言った。
「あなたと、あなたの兵士たちがわたしの下にいる限り、当然、わたしの陣営に入ることを承知しているはずだ」
ダビデは答えた。
「勿論です。あなたは僕の働き方によってそのことをお分かりになるでしょう」
「それならば、いつまでもあなたをわたしの護衛の長としておこう」
 それで、ダビデはアキシュと共にペリシテ軍勢に入り、イスラエルの民と戦うことにった。ペリシテ人はその軍勢をアフェクに集結させ、ペリシテの領主たちは、百人隊、千人隊を率いて先陣を行き、ダビデは部下たちを率いて、アキシュと共にペリシテ軍のしんがりを進んで行った。するとペリシテ人の武将たちはアキシュに尋ねた。
「このヘブライ人は何者ですか」
アキシュは答えて言った。
「これは、サウル王の僕だったダビデだ。ここ一、二年わたしの下に身を寄せているが、わたしは彼に何の欠点も見出さない」
 だが、武将たちはいらだち王アキシュに言った。
「どうしてこの男が我々の陣営にいるのだ。我々と共にイスラエル人と戦うというのか。
この男は、あの『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったダビデ
はないか。彼がサウルの下に帰るために我々の首を差し出すとでも言うのか。彼は戦いの
最中に我々を裏切るかも知れない。この男と一緒に戦うことはできない。帰らせるべきだ」
武将たちが騒ぎ立ったので、アキシュも彼らを抑えられなくなってダビデに言った。
「エホバは生きておられる。あなたは廉直な人です。わたしは一度もあなたの悪を見たことがない。だが、武将たちはあなたを警戒している。彼らの好まないことをするのは良くない。今はツィクラグに戻ったほうがよい」
ダビデは言った。
「わたしが何をしたとおっしゃるのですか。あなたにお仕えした日から今日まで、どんな間違いがあって、我が主君である王と共に、王の敵であるイスラエル人と戦うために出て行ってはならないのでしょうか」
 王アキシュは答えた。
ダビデ、わたしにはよく分かっている。あなたは神の御使いのように善い人だ。しかしペリシテの領主たちには、あなたは手ごわいのだ。彼らは、『我々と共に戦いに上って行ってはならない』と言うのだ。それで明日の朝早く、あなたの部下たちと一緒にツィクラグに帰りなさい」
 それでダビデとその部下たちは、ペリシテ軍から離脱し、ツィクラグに戻って行った。王アキシュのほうはペリシテ軍を率いてイズレエルへ向かった。
   

第五章 ダビデ王となる

 
   一 サウルとヨナタンの死――ギルボア山で戦死


 ダビデと部下たちがツィクラグに戻ってみると、思わぬことが起きていた。その町は焼き払われており、だれ一人残っていなかった。彼らが帰る三日前に、アマレク人が襲撃して来て、町に火をかけ、妻子や年老いた親たちすべての者を引いて行ったというのである。ダビデの兵士たちはみんな声を上げて泣いた。ダビデも泣いた。ダビデの二人の妻、イズレエル人のアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルも連れ去られていたのである。部下たちは悲しみのあまりに、ダビデを石打にして殺そうとまで言い出した。この時ダビデは、逃亡生活のなかでも最も大きな危機に瀕していたのである。ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じて、エフォドを持って来させると、神エホバに託宣を求めた。
「この略奪隊を追跡するべきでしょうか。わたしたちは追いつけるでしょうか」
 するとエホバは言われた。
「追跡せよ。必ず追いつき、救出することができる」
 それでダビデの後に従う六百人は休む暇もなく出立した。しかしベソル川に着くと、疲れきって川を渡ることのできない者が二百人出た。ダビデは彼らをそこに留めた。そしてしばらく追って行くと、一人のエジプト人の男がうずくまっていた。彼はダビデの下に連れて来られた。ダビデは尋ねた。
「お前はどこから来たのか。だれの配下の者か」
「わたしはエジプから来ましたアマレク人の奴隷です。三日前に病気になりましたので、わたしの主人はわたしを見捨てて逃げて行きました」
「どこを襲撃したのか」
クレタ人の南、ユダに属する南、カレブの南に侵入し、ツィクラグに火をかけました」
「三日前だな。お前はその奇襲隊のところに我々を案内できるか」
「はい。わたしを殺さない、わたしの主人に引き渡さない、と神にかけて誓ってくださるなら」
「よろしい。お前を殺すことも、主人に引き渡すこともしない」
 男はダビデたちを案内した。見るとアマレクの略奪隊は、ペリシテの地とユダの地、またツィクラグの町から奪ってきたおびただしい戦利品を辺り一面に広げて、飲んだり食べたりのお祭り騒ぎをしていた。ダビデは夕方になるまで待ってから攻撃をかけた。それは翌日の夕方まで続いた。ラクダに乗った若者たち四百人は逃げて行ったが、殆どの者を捕らえた。また、ダビデの二人の妻と兵士たちの家族たち、老人も幼い息子や娘たちのすべてを救い出した。奪われた物も全部を取り返し、さらに彼らの羊や牛のことごとくを奪った。
 ダビデと兵士たちが、これらの戦利品を持って帰ってくると、ペソル川の傍で座り込んでいた二百人の兵士たちも喜んで迎えた。ダビデは彼らのことを心配して言った。
「具合はどうだ」
 しかし、悪意のある兵士たちは言った。
「彼らは我々と共に戦わなかったのだから、我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。妻と子どもたちだけを連れて行くがよい」
 ダビデは言った。
「兄弟たちよ、そんなことを言ってはいけない。略奪隊を我々に与えてくださったのも神なのだ。我々を守ってくださったのは神なのだから、荷物のそばにいた者も、戦いに出て行った者も、みな同じように分け合うべきだ」
 まさしく守ってくださったのは神だった。あのとき、ペリシテ軍隊から追い返されていなければ、ダビデも部下たちの家族もすべて失われていたのだ。神の計らいとしかいいようのないことだった。そしてこの時のダビデの振る舞い、すべての部下たちに戦利品を分け与えたことは、その後のイスラエルの民が戦利品をどう扱うかの慣例となった。そしてツィクラグに帰ったダビデは、その戦利品をユダの各地の長老たちにも贈って、こう言った。
「これは神エホバの敵から得た戦利品の一部です。どうか受け取ってください」
 その送り先は、ベテル、ラモト・ネゲブシフモト、エシュテモア、ラカル、エラフメエル人の町々、ホルマ、ボル・アシャン、アタク、ヘブロン、そしてダビデとその兵士たちが彷徨っていた地域の、援助してくれた各地の長老たちだった。このダビデの優しさ、細かな配慮と思いやり、実行力が、後にサウルが治めていたイスラエル十部族と、ユダとベニヤミンの二部族が統一された、十二部族から成るイスラエル王国の王にしていったのである。

 他方、ダビデが離脱したペリシテ軍と、イスラエル軍の戦いは熾烈を極めていた。イスラエル軍はギルボア山に陣を敷いていたものの、サウルはペリシテ軍の陣営を見ただけで恐れをなし、その心はひどくおののいた。それでサウルは神エホバにしきりに宣託を求めたが、神は宣託によっても、夢によっても、預言者によっても、ウリム(重大な問題が起きたときに、神に伺うために用いられた物)によっても彼に答えられることはなかった。既に神から切り断たれていたサウルには、もはや何の助けもなかったのである。
 それでもサウルは、何かに頼るしかなかった。彼は以前、国内の祭司を皆殺しにしていたし、また、国内の口寄せや魔術師もすべて追放していたので、戦いの策について教えてくれる者がだれもいなかった。ついに彼は家臣に、エン・ドルの口寄せの女を捜してこさせ、深夜に変装してその女の下へ行った。サウルはいよいよ神の忌み嫌われる世界へと落ちていったのである。イスラエルの神エホバは、モーセの律法(申命記一八:九、一〇)のなかで、口寄せや、死者に問い尋ねること、占い、魔術、呪術などを禁じておられたのである。しかしサウルはその悪霊に頼るしかなかった。それが神に背いた王の姿であった。そんな彼に、エン・ドルの口寄せ女は、悪魔サタンから見せられたことをサウルに伝えて言った。
「神のような方、年老いた人が地から上ってくるのが見えます」
それを聞いたサウルは、「その方はサムエルだ!」と言った。
女はその方の言葉をサウルに告げた。
「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主はわたしを通して告げられたことを実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる。あなたは主の声を聞かず、アマレク人に対する主の憤りの業を遂行しなかったので、主はこの日、あなたに対してこのようにされるのだ。主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人に渡される。明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいる。主はイスラエルの軍隊を、ペリシテ人の手に渡される。」(サムエル記上 二八:一六—一九)
 神が霊媒者を用いて語られるということはないので、口寄せの言葉はサムエルが語ったものではなかった。けれどそれを聞いたサウル王は、サムエルに似せた悪霊の言葉にひどくおびえて地面に倒れてしまった。サウルはもはや裸にされた無力な一人の男でしかなかった。サウルの王としての最後が近づいていた。
サウルが率いるイスラエル軍と、アキシュが率いるペリシテ軍は相対峙していたものの、イスラエル軍は戦う前から恐れおののいており、兵士たちの一部は陣営から逃走してしまう始末であった。勝敗は目に見えていた。残った兵士たちも傷つき、次々にギルボア山上で倒れていった。そのなかには、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアもいた。もしもダビデがペリシテ軍勢のアキシュの配下に留まっていたなら、このイスラエル軍と戦うはめになっていたのである。彼は、油注がれたサウル王もヨナタンも殺すことはできなかったであろう。すべては神が導かれていることだった。
サウルの三人の息子たちが討たれ、サウルに対する攻撃も激しくなって、ついにペリシテ軍の射手たちが王を見つけた。彼らは容赦なく討ってきた。サウルは深手を負って倒れた。そこで誇り高いサウルは、彼の武具持ちの従卒に命じて言った。
「お前の剣を抜いて、早くわたしを殺せ。あの無割礼の者どもに捕らえられ、なぶり者にされて殺されたくはない」
 しかし従卒は非常に恐れ、命令どおりに動くことができなかった。
「王様、しっかりしてください。わたしにおつかまりください。ひとまず逃げましょう」
 しかしサウルの耳にはその声も届いていなかった。意識が次第に薄れていくのを感じた。そこでサウルは、最後の力をふりしぼって自ら剣を取ってその上に倒れこんだ。それが王サウルの最後の瞬間だった。それを見た従卒も自分も剣の上に身を投げ出してサウルの後を追った。
この日、サウル王と息子たちと従卒、イスラエル軍の兵士たちの多くの者が死んだ。谷の向こう側、ヨルダンの向こう側に住んでいたイスラエル人たちも、その町を捨てて逃げ去った。それでペリシテ軍がそこに来て町を奪った。
翌日、ペリシテ人は、戦死者たちから武器や衣類を剥ぎ取ろうとしてやって来た。そして、ギルボア山でサウルとその三人の息子たちが死んでいるのを見つけた。彼らはサウルの首を切り落とし、豪華で趣味の良い武具を奪い取った。そしてペリシテ全土に使者を送り、彼らの偶像の神々と民に戦いの勝利を伝えた。彼らはサウルの武具を彼らの偶像の神であるアシュトレトの神殿に納めた。王と息子たちの遺体はベト・シャンの城壁に曝し者にした。
そのことを聞いたギレアドのセベシュの住民たちは、夜を徹してベト・シャンに行き、その城壁から遺体を下ろした。そしてヤベシュに持ち帰って火葬に付し、彼らの骨を拾ってヤベシュのギョウリュウの木の下に葬った。王はギョウリュウの木陰を好み、その下に座って多くの時を過ごしたのである。それからイスラエルの全住民は、七日間、断食をして王とその息子たちの死を悼んだ。 

  二 哀歌「弓」
  
 ダビデが、サウルとその息子たちの戦死を知ったのは、アマレク人を追跡し、盗まれたすべての物を取り戻してツィクラグに帰ってから三日目のことだった。サウルの陣営から生き延びて来た一人の男がダビデの下にやって来た。よほど急いでやって来たものか、衣服は裂け、頭には泥をかぶっていた。男はダビデの前で地にひれ伏して三度敬礼をした。
 ダビデは尋ねた。
「お前はどこから来たのか」
「はい、イスラエルの陣営から逃れて参りました」
「話してくれ。戦況はどうなっているのか」
 ダビデは身を乗り出して尋ねた。彼はサウルよりも、ヨナタンの命が心配だったのである。
イスラエルの兵士たちはみんな戦場から逃れて行きました。多くの兵士がギルボア山で死にました。そして、サウル王と王子のヨナタン、二人の王子もギルボア山で戦死なさいました」
 ダビデは言った。
「しかしお前はどうして二人の死を知っているのか」
「はい、わたしはたまたまギルボア山におりました。その時サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、その後ろからおびただしい戦車と騎兵が迫って来ました。王は振り返ってわたしをご覧になり、わたしをお呼びになりました。そしてこうおっしゃいました。『お前はだれだ』。そこでわたしはお答えしました。『わたしはアマレク人です』。すると王はおっしゃいました。『そばに来てとどめを刺してくれ。痙攣が起きているが死ぬことができない』。そこでおそばに行って止めを刺しました。倒れてしまわれたからにはもう生きる延びることはできないと思ったからです。それで、頭につけておられた王冠と腕にはめておられた腕輪を外して御主人さまに持って参ったのでございます。これでございます」
 そして彼は恭しくそれを差し出した。ダビデはその王冠と腕輪を手に取ると声を上げて泣き出した。この時、この男が嘘をついているとは知らなかったが、自分の衣をつかんで引き裂いた。(悲しみを表わす時の慣習)傍にいた従者たちも同じようにして泣いた。それからダビデはもう一度若者に尋ねて言った。
「お前はどこの出身か」
「わたしはアマレク人の寄留者の子です」
「お前は、神が油注がれた方を少しも恐れなかったのか!」
 そう言ってから、ダビデは従者の一人を呼び寄せて命じた。
「この者を討て!」
 すると、その従者が男を討ったのでその男は血を流して死んだ。ダビデは言った。
「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身が、『わたしはエホバが油注がれた方を殺しました』と言ったからだ」
 次いでダビデは、愛するヨナタンも父王と共に戦死したことを知って激しく泣いた。「ヨナタン……あなたまでが……」
ダビデが、ヨナタンと最後に会ったのは、要害にいたダビデの下にサウルの動向を報せに来てくれた時のことだった。そのことを思うと、熱い感情を抑えることができなかった。その思いを「弓」という哀歌に詠んだ。     

    弓

 イスラエルよ、「麗しき者」は
 お前の高い丘の上で刺し殺された。
 ああ、勇士らは倒れた。
 ガトに告げるな
 アシュケロンの街々にこれを告げるな
 ペリシテの娘らが喜び祝い
 割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。
 ギルボアの山々よ、生贄を求めた野よ
 お前たちの上に露も結ぶな、雨も降るな。
 勇士らの盾がそこに見捨てられ
 サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている。
 刺し殺した者たちの血
 勇士らの脂をなめずには
 ヨナタンの弓は決して退かず
 サウルの剣がむなしく納められることもなかった。

 サウルとヨナタン、愛され結ばれた二人
 鷲よりも高く、獅子よりも雄々しかった。
 命ある時も死に臨んでも
   二人が離れることはなかった。
 泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。
 紅の衣をお前たちに着せ 
お前たちの衣の上に
  金の飾りを置いたサウルのために。
ああ、勇士らは戦いの最中に倒れた。
ヨナタンイスラエルの高い丘で刺し殺された。
あなたを思ってわたしは悲しむ
兄弟ヨナタンよ、まことの喜び
女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。

ああ、勇士らは倒れた。
戦いの器は失われた。(サムエル記下 一:一七―二七)

ダビデを除かなければ、サウルの子孫が王になることはない、ということを誰よりもよく知っていたサウルは、ダビデを殺そうと堅い決意を抱き続けてきたのだった。そして最後まで追跡を諦めることはなかった。そのサウルの心底をしっかりと感じ取っていたダビデは、命を守るために究極の行動に出た。それは、敵のまっただ中であるペリシテ人の王の懐に飛び込むことであった。それ以外に自分の命を守る術はないと悟っていたのである。そしてそのようにして危機を乗り切った。そればかりか、本来は敵であるペリシテ人の軍勢に加わってすらイスラエル軍のサウル王と戦う覚悟であった。そのダビデが、サウル親子の死に直面して詠ったこの詩には、ダビデの限りなく優しい人間味豊かな特質が滲み出ている。
「弓」という題名が示しているように、ダビデは、サウル王とヨナタンの二人を勇士として称え、そして割礼のない者が決してその死を喜ぶことがないようにという願いを言い表している。終始、自分の命をつけ狙った相手ではあったが、神に選ばれた王、割礼のある民という点で、サウルとの強い共通点を意識していたのであろう。その気持ちは、「泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ、お前たちの衣の上に金の飾りを置いたサウルのために。」のなかによく表れている。そこにはもう個人的な憎しみの感情はなく、あくまでも油注がれた王の死を悼んでいる。ダビデの懐の深さもさりながら、詩人としての鋭い感性を感じないではいられない。
また、ヨナタンに対しては、「女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」と詠うほどの人だった。人間には、男女という性を超えてこんなにも深い愛が有るのか、と感動を覚える。王の親子、親はダビデを憎んで嫉妬し、殺したいと思っていたのに、息子ヨナタンのほうは、自分が得たかも知れない王権を奪う相手であるダビデを、限りなく愛していたのである。二人はあまりにも性格や考え方が異なる親子であった。それでも親子の愛情は強く、生きている時も死ぬ時もしっかりと結び合っていたのである。そのことを誰よりもよく知っていたダビデであったから、いっそうその優しさに引き寄せられる。「弓」は、ダビデの透き通るように純粋な心からあふれ出た実に感性豊かな気高い哀歌である。
ダビデは、王であり、預言者、戦士、音楽家でもあったが、何よりもこのように、時代を超えて人々の胸を打つ素晴らしい詩人であった。そのことは「詩編」を読めば分かることである。その素晴らしい人間的な魅力があったからこそ彼は一介の羊飼いから偉大な王に召されたのである。その点を除いては彼について語ることはできない。
  三 イシュ・ポシェトとアブネルの死


愛するサウルとヨナタン、他の王子たちも死んだ。そのことによって、ダビデを取り巻く環境は一変した。もうペリシテに逃亡している必要はなくなった。要害から要害へ、放浪から放浪への生活、あてもなく荒野をさまよう生活を続けてほぼ十年、ダビデは今や三十歳になっていた。しかしその苦難に耐えてきたことによって、王としての資質、確固とした基盤が築かれていたのである。神の聖霊が激しく降っていた。ダビデの人生は、まったく自分が描いたものではなかった。あくまでも神が定められたものである。ゆえに、その後の将来も神が導いてくださるという確信のもとに、ダビデは自分の行動のすべてを神エホバに委ねた。
「主よ、わたしはユダへ上って行きましょうか」
 エホバは言われた。
「上って行け」
「どこへ上ればよいのでしょうか」
ヘブロンへ」
 とエホバは言われた。そこでダビデは、二人の妻と部下たち、その家族を連れて上って行った。こうして彼らはヘブロンの各地に住むようになったのである。それを待っていたユダ族の人々が大喜びし、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。
その頃、ギレアドのヤベシュの人々がサウルを葬ったと聞いて、ダビデは彼らに使者を送ってこう言わせた。
「あなたがたが主に祝福されますように。あなたがたは主君のサウルに忠実を尽くし、彼を葬りました。今、主があなたがたに慈しみとまことを尽くしてくださいますように。わたしもそうしたあなたがたの働きに報いたいと思います。力を奮い起こし、勇敢な者となってください。あなたがたの主君サウルは亡くなられましたが、ユダの家はこのわたしに油を注いで自分たちの王としました。」(サムエル記下 二:五―七 )
 敵であったサウルの死を悼み、それに仕えた人々への忠実さを褒めて励まし、かつ、自分がユダの王になったということを明確に伝えた。いかにもダビデらしい礼儀の示し方である。そのようにできたのは、ダビデの物事に対する視点が、いつも神エホバにあり、憎しみに対しては慈しみで、不正に対しては毅然とした公正で報いるという神の特質をみならっていたからである。自らが殺されそうになりながら、そしてその相手を殺すチャンスがありながら、それを二度も見送り、その権利を行使せずにサウルを容赦したダビデ。いつも裁きを神に委ねた彼だからこそ、ヤベシュの人々にも公正に振舞うことができたのである。
 そして神が定めておられたシナリオは、急激に動き出していった。かつて、神が自分をどうしてくださるかが分かるまで……、と言って両親を敵地にかくまってもらわなければならなかった程のどん底から引き上げられて、ダビデイスラエル全土の王となっていく情勢はダイナミックに展開していくのである。

 全イスラエル(ユダ族を除いた十一部族)側の王であったサウルの死後、イスラエル軍の司令官アブネルは、サウルの息子イシュ・ポシェトを後継者として全イスラエルの王とした。イシュ・ポテトが王位についたとき四十歳であった。それで、必然的にダビデを王とするユダ族とイスラエルの両軍は、ギブオンで対峙することになった。ユダ側の司令官はヨアブ。ヨアブはダビデの姉妹ツェルヤの息子であり、彼女には他にもアビシャイとアサエルという二人の兄弟がいた。この三人はいずれも勇士として知られていた。それで両軍の司令官は決着をつけるためにギブオンのヘルカト・ツリムに集い、そこで各軍から十二名の若者たちを出し合って互いに戦わせることにした。
それは激しい戦闘の日となった。両軍の戦士たちは、各々が剣を相手の腹に同時に突き刺したので共に倒れた。次いで、ユダ軍の勇士アサエルがイスラエル軍の司令官アブネルをどこまでも追跡して行くという事態が起きた。アサエルは野のカモシカのように足が速く、一直線にアブネルだけを追った。逃げるアブネルは振り向いて言った。
「お前はアサエルだな」
「そうだ、アサエルだ」
「右か左にそれて、誰か他の若者を捕らえ、その者が身に着けている物を盗れ」
 しかしアサエルは、アブネルの追跡を止めなかった。アブネルは再び言った。
「アサエル、お前を殺すわけにはいかないのだ。そのようなことをしたら、お前の兄ヨアブに顔向けできないではないか」
 しかしアサエルは無言で追ってきた。そこでアブネルは、槍の石突きでアサエルの下腹を突いた。アサエルはその場に倒れて死んだ。それを見た兵士たちはそこで立ち止まったが、アサエルの兄弟ヨアブとアビシャイは、アブネルを追い続けた。そして夕方になった。  
アブネルは言った。
「もう追って来るのは止めよ、どんなに悲惨な結果になるかを知らぬわけではあるまい」
 そこでヨアブも角笛を吹いて戦いを止めさせた。アブネルはアラバマを夜通し歩いてヨルダン川を渡り、さらに夜が明けても歩き続けてマハナイムに着いた。ヨアブの軍も引き返して、夜通し歩いてヘブロンに戻った。兵士を集合させて数えてみると、アサエルの他に十八名が戦死しており、アブネルの軍は三六〇人が戦死していた。アサエルはベツレヘムに運ばれ、父の家に葬られた。
しかしその後も、イスラエルの十一部族とユダ族との戦いは長引いた。そして、ダビデの家は栄えて行ったが、イスラエルのサウルの家は日ごとに衰えて行った。そのようなときに、サウルの息子イシュ・ポシュトはアブネルに言った。
「あなたはなぜ父の側女と通じたのか」
 前王の側女と関係をもつことができるのは、次の王だけであったからである。しかしアブネルは、自分の行動を咎められたことで怒った。
「わたしはユダの犬どもの頭とでも言われるのですか。今日までわたしはあなたを擁立してイスラエルの王とし、あなたの父上の家とその兄弟、友人たちを支え、忠実に奉仕してきました。それなのに女のことでわたしを咎めるというのですか。神エホバがダビデに誓われたことをわたしがダビデに行なわないなら、神がアブネルを幾重にも罰してくださいますように。わたしは、王権をサウルの家からダビデの家に移し、ダビデの王座をダンからベェル・シェバに至るまでイスラエルとユダのために打ち立てます」
 そう言われた王イシュ・ポシェトは、アブネルを恐れて再び何も言わなかった。アブネルは確かに勇者であったが心は神に向いていなかった。併せてサウルの家は神から見捨てられ、神の後ろ盾がなく、神の聖霊ダビデの上に移って行ったことをよく知っていた。それで日和見主義のアブネルは、サウルの家のためにではなく、自分の権力を維持するために、ダビデの下に使者を送ってこう言わせた。
「この地は誰のものでしょうか。わたしと手を結べば、全イスラエルがあなたに付くように取り計らいましょう」
 アブネルはサウルの家を見捨ててダビデの側に付きたいと思っており、そのために事前にイスラエルの全長老たちからその意を受けて了承を得ていたのである。
 ダビデは答えて言った。
「よろしい。契約を結ぼう。ただし、一つの条件がある。わたしに会いに来るとき、サウルの娘ミカルを必ず連れて来るように。さもなければ、あなたはわたしに会いに来る必要はない」
 そしてダビデは、イシュ・ポシェトにも使者を送ってこう言わせた。
「わたしは、ペリシテ人の陽皮百枚を納めて妻ミカルを娶りました。そのミカルをぜひとも返していただきたい」
 ミカルがダビデと別れてから約十年が過ぎていた。その間にミカルは、父サウル王によってベニヤミンの領地に連れ戻されており、ベニヤミン族のライシュの子パルティエルの妻になっていのである。イシュ・ポシェトは、そのパルティエルからミカルを取り上げた。パルティエルは泣きながらミカルの後を追い続け、ついにバフリムまで来た。しかしアブネルは、その地で「もう帰れ」と言った。パルティエルは立ち止まって泣き崩れた。彼はミカルを本当に愛していたのである。しかしアブネルは、彼を残してミカルと二十人の部下を伴ってダビデの下にやって来た。ダビデがミカルに再会したのは、あの夜サウルがダビデを殺そうとし、窓から逃げて行った時以来であった。ミカルは未だダビデを愛しており、ダビデもミカルのことを忘れたことはなかった。だが、二人を隔てていた歳月はあまりにも永過ぎた。
ダビデは、アブネルたちを歓迎し、酒宴を開いて彼らを迎えた。アブネルは言った。
「わたしは、主君である王の下に全イスラエルを集めましょう。彼らがあなたと契約を結べば、あなたはお望みのままに治めることができます」
 ダビデはこれを快諾し、アブネルも機嫌よく出立して行った。しかしその直後に、戦いに出ていたダビデの軍の司令官ヨアブが、多くの戦利品を持って帰って来た。そして、アブネルが帰って行ったばかりであることを聞くと、ただちに王の前に出て言った。
「王よ、あなたはアブネルのことをよくご存知です。どうして去らせておしまいになったのですか。彼が来たのはこちらの動静を探るためだったのです」
「違う。この度のアブネルは、確かにわたしと契約を交わすために来たのだ」
 ダビデは激しく否定した。しかしヨアブは聞く耳をもたず、慌しくダビデの前から下がると、すぐさま使者を遣わしてアブネルを追わせた。使者はボル・シラでアブネルに追いつき、ヘブロンに連れ戻した。アブネルは不審そうに尋ねた。
「何事ですか? わたしは平和裏にダビデ王と契約を済ませて帰るところです」
 アブネルはヨアブを少しも疑っていなかった。むしろ骨肉の十二部族が一つになることを願い、その橋渡しができることに大いに満足していた。しかしヨアブは、弟のアビシャイと計って、「少し静かなところで話したい」と、巧みにアブネルを城門の中へ誘い込むと、何も言わずにいきなりアブネルの下腹を刺した。弟アサエルの血の復讐をしたのだった。ヨアブは勇敢な戦士であり、知恵者でもあったが、人間的には残忍なところのある人物であった。
 後にこれを聞いたダビデは怒って言った。
「ネルの子アブネルの血について、わたしとわたしの王国は主に対してとこしえに潔白だ。その血はヨアブの頭に、ヨアブの父の全家に降りかかるように。ヨアブの家には漏出の者、重い皮膚病に病む者、糸紡ぎしかできない男、剣に倒れる者、パンに事欠く者が絶えないように。」(サムエル記下 二八、二九)
 そしてダビデは、ヨアブと兵士全員に向かって命じた。
「衣服を裂き、粗布をまとい、悼み悲しんでアブネルの前を進め。」(サムエル記下 三:三一)
 ダビデ自ら、アブネルの棺の後ろに従って、彼をヘブロンの地に葬った。そしてその墓に向かって声を上げて泣いた。兵士たちも皆泣いた。
 ダビデのこれらのすべての行動は部下たちの見守るところとなり、ダビデは彼らの目に適うところとなった。ダビデは民の心を掴み、民はみなこのようなダビデを愛するようになったのである。しかしダビデは、ヨアブをその地位からすぐに降ろすことはしなかった。むしろダビデはこう言った。
「今日、イスラエルの偉大な将軍が倒れたということを悟らねばならない。わたしは油注がれた王であるとはいえ、今は無力である。あの者ども、ツェルヤの息子たちはわたしの手に余る。悪をなす者には主御自身がその悪に報いられるように。」(サムエル記下 三:三九)
 ダビデは正直な気持ちを表明していた。王といえども、軍の力なくしては何もできなかった。しかし彼は、その裁きはすべて神に委ねていたのである。そしてその日ダビデは、アブネルの死を悼んで陽が沈むまで何も口にしなかった。彼はその生涯を通して、その時々に誰を用い、誰を切り捨てるか、それが何時なのかを、常に冷静に見ることができる指導者であった。それもみな神の観点に立って行なっていることだった。
 アブネルがヘブロンへ行ったまま、その地で殺され、葬られたという噂を聞いたイスラエルの民は脅えた。イシュ・ポシェトも力を落とした。もうサウルの家を支え、イスラエルを支えてくれる者はだれもいなくなったのである。
そんなある日の日盛り、イシュ・ポシェトは、昼寝をしていた。その時、レカブとその兄弟バアナという略奪隊の隊長が、小麦を受け取る振りをして家に入り、寝床に横たわっている主君の腹を突き刺した。そしていとも簡単にその首をはねると、アラバへの道を夜徹して歩き続け、王の首をダビデに差し出した。二人は言った。
「ご覧ください。王のお命を狙っていたサウルの子イシュ・ポシェトの首です。神は王のためにサウルとその子孫に報復されました」
 ダビデは言った。
「あらゆる苦難からわたしの命を救ってくださった神エホバは生きておられる。かつてペリシテのツィクラグに寄留していたとき、一人の若者が自分では良い報せだと思い、サウルとヨナタンの死をわたしにもたらした。わたしは彼に、お前はそれをどのように知ったのかと尋ねたら、彼は嘘の話をでっちあげてその死を語ったものだ。それでわたしはその者を捕らえてその場で処刑した。ましてや、お前たちは、自分の家で休んでいた無実の主君を殺しておきながら、それをもってわたしに褒賞を求めようというのか。その流血の罪がお前たちの手に返らないとでも思っているのか。お前たちは地上から除き去られなければならない」
 ダビデの命令によって、彼らの両手両足は切断され、ヘブロンの池のほとりの木につるされた。イシュ・ポシェトの首はヘブロンに送られ、アブネルの墓に葬られた。そのとき彼の亡き父サウル王の骨は、未だ父キシュの墓に葬られていなかったからである。
 
 
  四 ナタンの預言


 このようにして、イスラエルの軍の司令官アブネルが暗殺され、そしてアブネルによって擁立されて王となっていたサウルの子イシュ・ポシェトも暗殺された。それでイスラエルの十一部族を治める者がいなくなり、イスラエルの長老たちはヘブロンダビデのもとに来て言った。
「ご覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。サウルが王であったときにも、実はイスラエルを真に指揮しておられたのはあなたでした。なぜなら、神エホバはあなたにこう言われたからです。『あなたが、我が民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
 イスラエルの長老たちも、イスラエルの国を守るためには、神の御前でユダの家と契約を結んで、ダビデに油注ぎ、イスラエルとユダの全家を統一しなければならないと考えていたのである。こうして、ダビデが統一された全イスラエルの王となったのは、彼が三〇歳のときだった。軍隊の兵士は三四万八二二人であった。かなり強力な軍隊だった。それでダビデは、ヘブロンで七年と六ヶ月、その後エルサレムを王都として、そこで三十三年間支配した。エルサレムは最初、山地に住むエブス人(ハムとカナンの子孫)が住んでいたところである。しかし神エホバは、アブラハムとの契約で、彼の子孫にエブス人の地を与えると約束されていた(創世記一五:一九、二〇)ので、その地を攻め取ったのであった。その地は絶好の要害の地であった。そのときエブス人はダビデを侮辱してこう言った。
「目の見えない者、足の不自由な者でもお前を追い払うことができる」
と。しかし要害の地を転々として来たダビデである。エブス人の要害を難なく陥れ、その周囲に城壁まで築いてしまった。それが後に「ダビデの都市」と呼ばれたエルサレム(二重の平和の所有)である。
後に、ダビデの子ソロモンはそのエルサレムに壮麗な神殿を建てた。その時こう祈っている。
イスラエルの神、主はたたえられますように。主は自ら語り、我が父ダビデに約束なさったことを、御手をもって成し遂げ、こう仰せになった。『我が民をエジプトから導き出した日からこのかた、わたしの名を置く家を建てるために、わたしはイスラエルのいかなる部族の町も選ばず、我が民イスラエルの上に立ついかなる指導者も選ばなかった。わたしはただエルサレムを選んで、そこにわたしの名を置き、ただダビデを選んで、我が民イスラエルの上に立てた』と。」(歴代誌下 六:四—六)
神はエルサレムを選んで、その都市にエホバの名を置き、ダビデイスラエルの上に立てることを決めておられたのである。また、モーセもこう預言している。
「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。」(申命記一二:五)(「主」とは神エホバのことである。)
ティルスの王ヒラムは、ダビデイスラエルを王の町にしたことを聞いて、レバノン杉、木工、石工を派遣して、ダビデが王宮を建てるのを手伝った。エルサレムは全イスラエルの首都として揺るぎないものとなっていったのである。神がダビデの王権を高めておられたからである。
それでダビデは、長い逃亡生活を終えた後、ヘブロンエルサレムで多くの息子や娘たちの親となった。ヘブロンで生まれた息子は、長男アムノン、次男キルアブ、三男アブサロム、四男アドニヤ、五男シェファトヤ、六男イトレアムであった。そしてエルサレムに移った後には多くの妻や側女を置いたので、息子や娘たちが更に生まれた。その子どもたちの名前は、シャムア、シュバブ、ナタン、ソロモン、イブハル、エリシュア、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフィレトである。
 
ダビデが、統一エルサレムの王として油注がれたことを聞いたペリシテ人は、ダビデの命を狙って攻め上って来た。そしてレフィムの谷に陣を敷いた。それに対してダビデは要害に下って行ってそれを待ち受けたが、神エホバに宣託を求めた。
ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか」
 神はダビデに答えられた。
「攻め上って行け。わたしは必ず彼らをあなたの手に渡す」
 ダビデはバアル・ベラツィムに攻め入って、ペリシテ人を討った。神の後ろ盾があったからである。それでダビデはこう言った。
「神エホバは、まるで水が堤防を破って崩して行くように、わたしの前で敵を打ち破って
くださった」
 ペリシテ人は、その谷に彼らの偶像を投げ捨てて逃げて行った。それゆえに、その場所はバアル・ベラツィム(破れ目の主)と呼ばれるようになった。
しかし間もなく、ペリシテ人は再び上って来て、レフィムの谷に陣を敷いた。ダビデは神エホバに宣託を求めた。するとエホバは答えられた。
「攻め上らずに背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つためにお前に先んじて出陣されるのだ。」(サムエル記下 五:二三、二四)
 細やかな戦略である。ダビデはこの言葉どおりに戦い、ゲバからゲゼルに至るまでペリシテ人を討ち倒した。神は実際にダビデに先んじて戦っておられたのである。ダビテの戦いはすべてこのように神の宣託によるものだった。神エホバの後ろ盾があったからこそ勝利が得られたのである。その意味では、偉大な王と呼ばれていても、異邦人アレキサンダー大王などとは全く異質な王であった。アレキサンダーの戦いが、人間の知恵と武器に頼るものであったなら、ダビデの戦いはあくまでも神の御名エホバを背負った信仰の戦いだった。ダビデの人生はその点で特異なものであった。そのことを認めないわけにはいかない。確かに神は、ダビデを選んで御意志を遂行しておられるからである。

 この後、ダビデイスラエルの民にとって非常に重要なことが行なわれた。神エホバの『契約の箱』をエサレムの都に運び入れることである。『契約の箱』とは、彼らがエジプトから出て流浪をしていた時代、幕屋の至聖所の中に置かれていた神聖な櫃であり、それは神が臨在されているしるしとなっていた。その櫃はアカシアの木で作られており、大きさは、長さ一一一センチ、高さ六七センチ、幅六七センチで、内側も外側も純金が被せられていた。その櫃の上部の両端には金細工の二つのケルブ(特別の務めをもつ高位の御使い)があり、頭を下に、翼を上方に伸ばして箱を覆い、互いに向き合っていた。そして櫃を運ぶときのために、箱の四隅の脚には金で鋳造した環が付いており、その環にアカシアの木に金を被せた長い竿が備えられていた。櫃を運ぶときには、その二つの金環に竿を通して担ぐのである。だれも直接櫃に触れることはできなかった。この形とデザイン、作り方はすべて神がモーセを通して指示されたものであった。
 その箱の中には、イスラエル人にとって神聖な記念物や、証の品々が保管されていた。主な物は、『十戒』の書き板、マナを入れた金の壷(エジプトを出て荒野をさまよっているとき、神は天からマナを降らせてイスラエル人を養われた)芽を吹いたアロンの杖(民数記一七:一〇)モーセが神から与えられた『律法の書』などであった。そして神は櫃の上にあるケルブの間から話されたのである。(出エジプト二五:二二)
 それでこの『契約の箱』は、イスラエルが宿営を移動するとき、またヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、カナンの地のエリコの町を攻略するとき、あるいはペリシテ人など神に敵対する民と戦うときなどに持ち出された。それを担ぐのは祭司たちであった。
 しかしその『契約の箱』は、異邦人に奪われることなどもあって転々とし、不敬な仕方で保管されたので、あちこちで災いを招いた。ゆえに、イスラエル人のみならず周辺の諸国民からも恐れられた。それで、ダビデがそれを王都であるエルサレムに持ち帰って納めておきたいと思った時、それはバアレ・ユダの丘の上にあったアビナダブの家にあった。そこでダビデは、イスラエルの精鋭三万人を動員して、その箱をエルサレムに運び入れることにした。箱はアビナダブの子ウザとアフヨが御する新しい牛車に乗せられた。アフヨが牛車の前を進み、ウザもその傍らを歩いた。他にも多数の民が糸杉の楽器、竪琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でながら、喜びに満たされて従っていた。ところがナコンの麦打ち場にさしかかった時のこと、牛がよろめいて牛車が傾いた。そこでウザは、とっさに神の箱に手を伸ばして押さえようとした。すると神の怒りがウザに臨み、神が即座にウザを撃たれたので、彼は箱の傍で死んだ。(後にその場所はペレツ・ウザ―ウザを砕く―と呼ばれるようになった。)このことで、ダビデは怒った。そして思った。<いったいどのようにしたら神の怒りを買うことなく、箱をエルサレムに運べるのだろうか?> ダビデは神を恐れた。それで神の箱を直接エルサレムへ運ぶのではなく、一時的にガト人オベド・エドムの家に置くことにした。そして三ヶ月そこに留まらせて様子を見た。すると、オベド・エドムの一家は、物質的にも霊的にも、その他すべてのことで祝福された。そのことがダビデの耳に入ると、彼は直ちに立ち上がって、再び神の箱をオベド・エドムの家からダビデの都市へ運ぶことにした。今度は慎重に行なった。神の箱を担ぐのは、祭司の家系であるレビ人の中でも選び抜かれた者たちである。ダビデは、レビ族の家系の長、また、アロンの家系の祭司たちを呼び寄せて言った。
「最初の時には、わたしたちは神の方法に適う行動をとらなかった。それで神は怒られ、わたしたちを撃たれた。この度は、神の言葉に従って、モーセが命じたとおりに運ばせよ」
それで、レビ人と祭司たちは、自らを聖別し、モーセが命じたように箱の四隅についている金の環に竿を通して、それを肩に担いだ。直接、身に触れないようにしたのである。そして琴や竪琴、シンバルなどの楽器を奏でさせ、詠唱者たちもその任務に就かせ、運搬の責任者もしかるべき場所に着かせた。民は声を上げて喜び祝った。そしてダビデもエフォドを着けて、神の御前で喜び踊った。神の箱を担ぐ者が六歩進むと、肥えた雄牛を生贄として捧げた。厳かにそして喜びに満ちていたのである。こうしてこの度は、神がその事を祝福されたので、箱は無事にエルサレムの天幕に入ることができた。イスラエルの民は、雄牛七頭、雄羊七匹を生贄に捧げ、深い感謝を表わした。こうして王も民も、神の臨在があってこそイスラエルは立っていることができることを知ったのであった。王であるダビデは、そのことをだれよりも深く認識していた。そのため、この日、神の箱がエルサレムに到着したことをいちばん喜んだのは王ダビデであった。彼は子どものように天真爛漫に喜びを表わした。神の御前に焼燔の捧げ物と和解の捧げ物をし、民や兵士、大群衆のすべてに、輪形のパンやなつめやしでつくった菓子、干しぶどうの菓子一つずつ分け与えた。民は祝福のうちに自分の家へ帰って行った。そして王自身も家族に祝福を与えようと帰った。するとダビデのもとに帰っていた妻ミカルが言った。
「今日のイスラエルの王はなんとまあご立派なことだったことでしょう。家臣やはした女たちの前で裸になって踊られたのですから。まるで空っぽな男が踊っておられるようなものでした」
 ミカルには、ダビデの霊的な喜びを理解することができなかったのである。それに対してダビデは厳しく答えた。
「そうだ、わたしは神の御前で、裸になって踊った。そうせずにはいられなかったのだ。イスラエルの神エホバは、お前の父サウルやその家の誰でもなく、このわたしを選んで神の民イスラエルの指導者としてくださったのだ。わたしはもっと卑しめられよう。そうするなら、お前の言うはした女たちからはもっと敬われるだろうから」
 ミカルはこのために、生涯子どもをもつことなく、死の日を迎えたのである。
 こうして、戦乱中に数奇な出来事を巻き起こしながら転々としていた神の箱が、やっとあるべき場所に安置された。そのことによってダビデ王と統一イスラエルの民は、少しずつ平安を取り戻していった。しかし王の心はそれだけでは満足せず、むしろ憂いていた。そこで、あるとき預言者ナタンに言った。
「見なさい、わたしはレバノンの杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕の中だ」
 それは長い間、ダビデの心に懸かっていたことだった。ナタンは言った。
「王よ、あなたの心にあることはどんなことでもしてください。神エホバはあなたと共におられるのですから」
 しかし、その夜、神の言葉がナタンに臨んで言った。
「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために
住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住み家としてきた。わたしはイスラエルの子らと共に歩んで来たが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのために、レバノンの杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。
 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうともわたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには、一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いてもはやおののくことはなく、昔のように不正を行なう者に圧迫されることもない。わたしがイスラエルの上に師士を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を起こす。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王国の王座を永久に堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手に永久に堅く据えられる。」(主とは神エホバのこと。サムエル記下七:五―一七)
ナタンはこれら幻で聞いた神の言葉をことごとくダビデに告げた。これが『ダビデ契約』と呼ばれるものである。それによると、ダビデの子の一人がエホバの神殿を建てること、そしてその後、ダビデ王朝の子孫が王座を永久に所有することなどが契約された。つまり、神殿を建てるのは、ダビデの息子ソロモンであり、永久の王となる方はイエス・キリストであった。キリストの到来は、その後一〇〇〇年後のことである。ダビデは、この預言者ナタンの言葉を聞いた後、神の御前に心を注いで祈った。
「主なる神よ。何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御眼には、それもまた小さな事に過ぎません。また、あなたは、この僕の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありましょうか。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があることを耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民、イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、さらにあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。
 主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りを捧げる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」(サムエル記下 七:一八—二九)
 このときのダビデの心境はいかばりであったろうか。不思議な気持ちだったにちがいない。彼も普通の人間だったからである。そのことは、「何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか」という言葉によく表れている。それでもダビデは、「この地上に一つでも、あなたの民、イスラエルのような民がありましょうか」と祈らずにはいられなかった。そのようにしてくださったのは、人間ではなく宇宙の主権者エホバであることを強く認識していたからである。彼こそ約束された当事者であったからである。でも、神はどんな目的があってそのようなことを行なわれたのであろうか? 無論、ダビデ個人のために行なわれたことではなかった。飽くまでも人類全体のためであった。神は地球を造り、そこに「人間」という特別な生物を置かれた方の責任としても、その人間には彼らを創造された方、神が実在することを悟って欲しかったからである。
ちなみに一世紀、神の代弁者として天から降りて来て、地球と人類に対する神の御意志が何であるかについて宣教されたイエス・キリストは、エルサレムの神殿でこう叫ばれた。「わたしを遣わした方が実在しておられるのですが、あなたがたはその方を知りません。」(ヨハネ七:二八 新世界訳)つまり、キリストは、神は実在すると明言されたのである。そのことを思うとき、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして神に選ばれて王となったダビデなどが果たしてきた役割は、全人類にとって極めて重要なメッセージを届けていたのである。


  五 ダビデの戦い 


 ダビデは何よりも戦士であった。かつてはその懐に逃げ込んでいたこともある宿敵ペリシテ人(地中海沿いにあった王国で、多神教の王国であり、彼らはイスラエルの宿敵であった。戦争をするとき彼らは、彼らの偶像の神々を携えて出た。)から、ガトとその周辺の町々を討ってこれを奪い取った。ペリシテには、ガザ、アシュケロン、アシュトド、エクロン、ガトなどの都市があり、非常に栄えていたのである。次にモアブを討ってモアブ人(アブラハムの甥のロトの子孫)を屈服させた。モアブはダビデに隷属し、彼に貢ぎ物を納めるようになった。しかし、ダビデはサウルに追われていた時代、このモアブの王に自分の両親を託したことがあった。それは当時、モアブの王がイスラエルの王サウルを敵とみなしていたのでダビデに好意を示したためだと考えられる。また、ハマト地方のツォバ(シリア人の王国でダマスカスの北に位置していたと推測されている)の王ハダドエゼルが、ユーフラテスに覇権を確立しようとしたとき、ハダドを討ち、戦車二千、騎兵七千、歩兵二万を捕獲した。そして戦車の馬百頭を残して、その他のすべての腱を切った。そしてハダドエゼルの町ティブハトとクンから大量の青銅を奪い取り、家臣たちからは金の盾を没収した。ハマトの王トウは、ダビデがツォバの王ハダドエゼルの軍勢を討ち滅ぼしたと聞いたとき、その戦勝を祝って、ダビデのもとに金、銀、青銅などのさまざまな品を送った。
 次いでダマスコのアラム人(ノアの子セムの子アラムの子孫で、彼らはアラム人とシリア人になった。)がツォバの王ハダドエゼルを援軍として戦いを挑んで来たとき、ダビデはアラム軍二万二千人を討ち、ダマスコのアラム人に対して守備隊を置いた。こうしてアラム人もダビデに隷属して貢を納めるようになった。このアラム人との戦いで勝利して帰る途中、塩の谷でエドム人を討ち、一万八千人を討ち殺した。そしてエドム全土に守備隊を置いた。それで全エドムはダビデに隷属する民となった。
このようにして、ダビデの戦いは破竹の勢いで勝利し、これら異邦の民であるエドム、モアブ、アンモン、ペリシテ、アマレク人から金、銀、青銅、数々の戦利品を得た。そしてダビデはそれらのすべてを神エホバのために聖別した。後にその子ソロモン王が神殿を建築する日のために取り分けられていたのである。
これらの戦いがあった後、ダビデはアンモン人の王が死に、その子ハヌンが王となったことを聞いた。ダビデこう言った。
「ハヌンの父ナハシュはわたしに忠実であったので、わたしもその子ハヌンに忠実でありたい」
彼はアンモンの王のもとに使節を遣わして哀悼の意を表わそうと、使節を送った。しかし使節が、アンモンの領地に入ると、アンモン人の家臣たちはハヌンに言った。
ダビデの言葉を信じてはなりません。ダビデは弔意を装って使節を送り、この国のことを探りに来たのです」
ハヌンは、ダビデ使節を捕らえ、ひげの半分を切り落とし、衣服も腰から下を切り落とし、甚だしい辱めを与えてこれを送り返した。その報せがダビデに届くと、ダビデは人を遣わして途中まで彼らを迎えさせ、
「ひげが生えそろうまでエリコに留まり、それから帰って来なさい」
と言わせた。
これらのことは、ダビデという人が、優れた戦士であったばかりではなく、繊細で人の心情を深く思いやれる、人間味溢れる魅力的な人であったことを物語っている。
一方、このことでアンモン人は、ダビデの怒りを買ったことを悟り、べト・レホブ、ツォバのアラム人の歩兵二万人を傭兵し、マアカ(アブラハムの兄弟ナホルが側女のレウマによってもうけた子どもの子孫)の王には兵一千人、トブには兵一万二千人を傭兵して攻めてきた。それに対してダビデは、司令官ヨアブの配下にある勇士の全軍を集めて送り出した。ヨアブは兄弟アビシャイに一部の指揮を委ね、アンモン軍に対して戦列を整えた。しかしアンモン軍はすぐに敗退して逃げ去った。しかしアラム人は、ツォバの王ハダドエゼルの助けを求め、態勢を立て直してもう一度攻めて来た。ダビデも全軍を集結させてこれを迎え撃った。そしてこの戦いでダビデは、アラムの戦車兵七百人、騎兵四万人を殺し、軍の司令官ショバクも戦場で撃ち殺した。それを聞いたハダドエゼルに隷属していた王たちは皆、ダビデと和平を講じイスラエルに隷属するようになった。以後、アラム人は二度とアンモン人を支援することはなかった。ダビデを恐れたのである。
このようにダビデは、戦争をしている時も、していない時も、敵であった人に対しても、味方であった人に対しても、神エホバの御前で忠実であった。彼の戦争目的は、いつでも神に敵対する異邦の民を討つことであり、私利私欲の戦いではなかったのである。それがダビデの戦いの特徴であった。
あるときダビデは言った。
「わたしはヨナタンのために、神に誓った忠実を尽くしたい。サウルの家の者で生き残っている者がいるなら連れて来なさい」
 サウル家に仕えていたツィバが連れて来られ、彼は言った。
ヨナタンさまのご子息が一人おられます。両足の萎えた方でございます」
「どこにいるのか」
「ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家におられます」
「わたしのもとに連れて来なさい」
 ヨナタンの息子メフィポシェトは、ダビデの前でひれ伏した。
「メフィポシェトよ!」
 ダビデは愛情を込めて呼びかけた。ダビデは、メフィポシェトに親友であり、女よりも深い愛によって結ばれていたヨナタンの面影を見たからである。
「我が主なる王よ、あなたの僕がここにおります」
「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。そして、祖父サウルの地所はみなあなたに返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をしなさい」
 ダビデは、サウルの地所をみな返す、と言ったのである。それは広大な地所であった。また、王と同じ食卓に預かるのは、王子たちと選ばれたほんの僅かな人たちだけだったので、これ以上の名誉はなかったのである。メフィポシェトは再び顔を伏せて言った。
「この僕が何者だというので、死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるのでしょうか」
 メフィポシェトも謙遜な人であった。王は、サウルの従者であったツィバを呼んで言った。
「サウルの家が所有していたものはすべて、お前の主人の息子に与える。お前はその畑を耕して収穫し、お前の主人の息子メフィポシェトのための生計を立てよ。メフィポシェト自身は、わたしの食卓で食事をする」
 ツィバは王に答えた。
「わが主なる王が僕に命じられましたことはすべてそのとおりに行います」
 ツィバには十五人の息子たちと二十人の召使がいたが、彼らは皆メフィポシェトの召使となった。
以後、メフィポシェトは、王の食卓に列なり、両足が不自由だったのでエルサレムに住んだ。こうしてダビデヨナタンとの約束に忠実を示したのだった。


  第六章 罪
 

  一 ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫


 年が改まり、イスラエルは、ヨアブの指揮下に全軍を送り出してアンモン人と戦っていた。しかしダビデ自身はエルサレムに留まっていた。そんなある日の夕暮れ、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。するとダビデの目に水浴びをしている一人の美しい女性の姿が目に留まった。ときに彼女は汚れから身を清めているところであった。ダビデは情欲に駆られ、その女の身元を尋ねさせた。彼女は、ダビデに仕えていたアヒトフェルの子エリアムの娘バト・シェバと言い、ヘト人(ノアの子ハム、その子カナンの子のヘトから出た民)ウリヤの妻だった。ウリヤは外人戦士であったが力ある戦人であり、ダビデの勇士三十人の中に名前を連ねていた。(サムエル記下 二三:三九)それで彼は宮殿の傍に住んでいたのである。そのときウリヤは、イスラエルが戦っていたアンモン人との戦争に出陣しており、異国の地で交戦中であった。にもかかわらずダビデは人を遣わしてバト・シェバを召し入れ、彼女と床を共にしたのである。そしてバト・シェバは妊娠した。そこで彼女は使いの者をやって、
「わたしは身ごもりました」
 と告げた。それを聞いたダビデは直ちに、イスラエル軍の司令官であるヨアブに使いを送って、ヘト人ウリヤを送り返すようにと命じた。ウリヤが帰って来ると、ダビデはいかにも心配そうに、ヨアブや兵士たちの安否を尋ね、戦況のことなどについていろいろ尋ねた。ウリヤは恭しく答えたものの、王の言動が腑に落ちなかった。けれどダビデはなおも親切そうに言った。
「ウリヤよ、早く帰って足を洗い、ゆっくりと休むがよい」
 ウリヤには王の言動が理解できず、忠実なウリヤは頭をかしげながら王宮を出て行った。すると彼の後から王からの数々の贈り物が続いた。しかしウリヤは家には帰らなかった。王宮の入口のところにあった宿舎で王の家臣たちと共に眠った。翌朝、ダビデは家臣に尋ねて言った。
「ウリヤは家に帰って休んだか」
「いいえ、王様、彼は我々のところで眠りました」
 ダビデは再びウリヤを呼んで言った。
「お前は遠征から帰って来たのではないのか。どうして自分の家に帰って休まないのか」
 ウリヤは地に顔を伏せて答えた。
「わが主なる王よ、神の箱(契約の箱)もイスラエルもユダも、戦場の仮小屋に宿っており、わが主人ヨアブも、主君の家臣たちも野営しております。どうしてわたしだけが家に帰って飲み食いし、妻と床を共にできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしにはそのようなことはできません」
 だが、これほど誠実なウリヤの言葉にも、ダビデの心は正しく反応しなかった。彼は自分の悪行を隠すことのみに必死になっており、ダビデはさらに言った。
「今夜、宮殿に来るがよい。共に食事を楽しんで行きなさい」
 ダビデは、何としてもウリヤを家に帰らせ、妻と床を一つにさせなければならなかった。それで夕暮れまで宮殿で御馳走と酒でもてなし、ウリヤを酔わせてから退出させた。それでもウリヤは家に帰らなかった。王宮の入口の所にあった宿舎で家臣たちと共に眠ったのである。
「ウリヤは家に帰りませんでした」
ダビデが尋ねると、再度、僕たちはそのように告げた。ダビデの心は益々悪魔サタンに駆り立てられて行った。そしてダビデは、遂にヨアブ宛の一通の書状をしたため、戦場に帰って行くウリヤにそれを託した。
「これをヨアブに渡しなさい」
 ウリヤは平伏してそれを受け取ると、何も知らずに戦場に帰って行った。その書状には、『ウリヤを戦いの最前線に立たせよ。そして彼だけを残して退却し、ウリヤを戦死させよ』とあった。
 ヨアブは主君の言葉どおりにした。兵士たちを都市の城壁に接近させて激しい戦闘になるように仕組み、その場にウリヤを配置した。するとアンモン人は都市から出て来て、ヨアブの軍と激突し、双方共に多くの戦死者を出した。ダビデの家臣や兵士たちも死んだ。そしてウリヤも戦死した。
 ヨアブは、この戦況の一部始終をダビデに報告させるために使者を送った。そして使者にこう言い含めた。
「もしも王が怒って『なぜ都市に接近して戦ったのか、城壁の上から射掛けてくるのは分かっていたはずだ』と言われたなら、こう答えなさい。『王の僕、ヘト人ウリヤも死にました』と」
 王の前に出た使者は、ヨアブの言葉を伝えて言った。
「アンモン人は我々より優勢で野戦を仕掛けてきました。それで我々が城門の入口まで押し返していきますと、射手が一斉に城壁の上から矢を放ってきましたので、王の家臣たちも死にました。ヘト人ウリヤも死にました」
 ダビデは使者に言った。
「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったとみなす必要はない。剣や弓があればだれかが犠牲になるものだ。いっそう奮戦して都市を陥れよ』」
 使者はその伝言を持ち帰ってヨアブに伝えた。
「ご苦労」
ヨアブは空を仰いだ。この度のことはダビデとも思えない言動であった。いつもならヨアブのほうが過激で、ダビデが抑える側に立つというのに……。しかし王の命令には従わなければならなかった。こうして誠実な人ウリヤは、ダビデ王の邪悪な行為によって殺された。もちろんバト・シェバは、ダビデのそのような謀り事を知るよしもなく、夫の戦死を嘆き悲しんだ。そして喪の期間が明けた後、ダビデは使いを遣ってバト・シェバを妻に迎え入れた。
 
 もちろん神は、ダビデのこのような極悪のすべてを見ておられ、そのまま見過ごさしてしまわれることはなかった。そして預言者ナタンを遣わして彼に言わせた。
「ある町に二人の男がおり、一人は富んでおり、もう一人のほうは貧しく暮らしていました。富んでいる人は非常に多くの羊や牛をもっておりましたが、貧しい男のほうはたった一匹の雌の子羊のほかには何ももっていませんでした。しかしこの貧しい男は、子羊を大切に養っており、それは彼の息子たちと一緒に育って行きました。子羊はわずかばかりのものを彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼の懐で眠り、彼にとって娘のようになりました。ある日のこと、富んだ男のところに一人のお客がありました。男はそのお客をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみました。そこで貧しい男の子羊を取り上げて、それを料理して楽しみました」
 そこまで聞いたダビデは、激怒してナタンの言葉をさえぎった。
「エホバは生きておられる。そんな無慈悲なことをした男は死罪に価する。その男は雌の子羊を四倍にして償わなければならない」
 そこでナタンは、ダビデを指さして言った。
「あなたがその男です!」
 それからナタンはゆっくりと言った。
イスラエルの神エホバはこう言われました。『あなたに油を注いでイスラエルの王にしたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたの懐に与え、あなたにイスラエルとユダの家を与えたのだ。それでも足りないというのであれば、何であれ、わたしは喜んであなたに増し加えたであろう。それなのになぜあなたはエホバの言葉を侮ったのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえに、剣はあなたの家から永久に去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』エホバはこう言われます。
『見よ、わたしはあなたの家の者の中から、あなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行なったが、わたしはそれを全イスラエルの前で、太陽の下で行なう。』」(サムエル記下 一二:一一)
 ダビデは頭を抱えて、叫んで言った。
「わたしは神エホバに対して罪を犯しました」
 ナタンは答えた。
「そのエホバがあなたの罪を取り除いてくださいます。あなたは死罪を免れることになります。けれど、あなたは神の言葉を軽んじ、重大な罪を犯したのですから、その報いを必ず受けます。生まれてくるあなたの子どもは死ぬことでしょう」
 ダビデの犯したことが、もしもモーセの律法下で裁かれたなら、胎内の子どもも含め、ダビデとバト・シェバの二人は死罪になっていた。それに相当する罪を犯したからである。(申命記五:一八、二二:二二)しかし、神は赦された。それはダビデだから特別にそうされたのではなく、ダビデと交わした『王国契約』を守るためであった。そのことについて神はダビデに、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出た子孫に跡を継がせその王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(サムエル記下 七:一二、一三)と約束されていたのである。やがて人間の王国にとって代わって、決して滅びることのない「神の王国」が樹立され、その王国の王は全人類を救うメシア(救い主の意)であり、それはダビデの胤から出るということが神の約束であり、その約束が変更されることはなかったからである。
そしてダビデが赦されたもう一つの理由は、ダビデの悔い改めが心から出た真実なものであることを神は知っておられたからである。ダビデの心は明らかにサウルとは違っていた。サウルは心から純粋に悔い改めたことは一度もなかった。神はどんな悪でも、心から悔い改める者を赦されるのである。(イザヤ一:一八)と言っても、ダビデとバト・シェバの罪がすべて消し去られるという意味ではなかった。ナタンが預言したように、ダビデの犯した罪はそれ相当の報いを刈り取らなければならなかった。神は、ダビデの家から災いは去らないと言われたのである。その原則は、王であれ、だれであれ、蒔いたものを刈り取るということに例外はなかった。
ダビデの家の災いは、姦淫によって宿されたバト・シェバの子どもが神に撃たれて死ぬ、ということから始まった。ダビデは罪の応報として、その子を失うことになっていた。それでダビデは我が子のために引きこもり、断食をして地面に横たわって神の憐れみを待ち望んで泣いた。しかしその子はナタンが預言したように、生後七日で死んだ。けれどそれは、ナタンが預言したダビデの家の災いの始まりに過ぎなかった。子どもが死んだことを知ったダビデは、もう断食をしても何をしても子どもが生き返ることはないことを悟ると、断食を止め、身を清めて香油を塗り、衣服を改めて神に祈った。
 このような祈りを捧げている。
   
指揮者によって、賛歌。ダビデの詩。
   ダビデがバト・シェバと通じたので
   預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
 
 神よ、わたしを憐れんでください
    慈しみをもって。
 深い御憐れみをもって
    背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い
  罪から清めてください。

 あなたに背いたことをわたしは知っています。
 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 あなたに、あなたの御前にわたしは罪を犯し
 御目に悪事と見られることをしました。
 あなたの言われることは正しく
 あなたの裁きに誤りはありません。

 わたしは罪のうちに産み落とされ
 母がわたしを身ごもったときも
   わたしは罪のうちにあったのです。
あなたは秘儀ではなくまことを望み
秘術を通して知恵を悟らせてくださいます。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
  わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください。
  雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
咎をことごとくぬぐってください。

神よ、わたしの内に清い心を想像し
新しく確かな霊を与えてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
  あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もし生贄があなたに喜ばれ
焼き尽くす捧げ物があなたの御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
   神よ、あなたは侮られません。

 御旨のままにシオンを恵み
 エルサレムの城壁を築いてください。
 そのときには、正しいいけにえも
    焼き尽くす完全な捧げ物も、あなたは喜ばれ
 そのときには、あなたの祭壇に
    雄牛が捧げられるでしょう。 (詩編五一:一―二一)

※シオンとは、もとはエブス人の居住地だったが、ダビデがそれを攻め取って“ダビデの都市”とした所。シオンは天にある実体の象徴で、神がおられる所の意味もある。
※ヒソプはハッカの仲間の植物でパレスチナ地方にある。イスラエル人は、エジプトを出るとき、過ぎ越しの生贄の血を家の鴨居にかけるときにこれを使った。
※生贄は、イエス・キリストの贖いの死を象徴的に示していた。血はイエス・キリストが流された血を象徴している。
 
このダビデの祈りのなかには、自分がどんなに大きな罪を犯したかを認め、心から悔い改めていることが示されている。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」「わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」と。ダビデは偉大な王であったから、もしもこれら、姦淫とウリヤの死のことを何とも思わず、隠蔽しようと思えば容易にできることだった。しかしダビデは、すべてを心から告白し、神に赦しを求めたのだった。諸国の王たちと違うのはこの点である。彼は、神の御名を背負う民の王であったので、物言わぬ偶像の神々に頼るのでも、自分の権力にすがるのでもなく、実際に生きて行動する神に頼り、その神と共に生きていたのである。実際、一国の軍隊をもって追跡するサウル王から逃げ回って、要害の地を転々としながらも生き延びることができたのは、神エホバが保護された証であった。


   二 息子アブサロムの反逆


ダビデが自らの罪を認め、神の御前に心を注いで祈った後、神はダビデの心を調べられ、再び彼を祝福されるようになった。こう記されている。
ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモン(平和の意)と名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディヤド(主に愛された者)とも名付けた。」(サムエル記下 一二:二四、二五)
 後のソロモン王の誕生である。バト・シェバはその後さらに、シムア、ショバブ、ナタンや、その他名前の挙げられていない子どもたちの母となった。神は二人の罪を赦され祝福されたのである。
 しかし、犯した罪ゆえの災いも預言どおりにダビデの家を襲った。その最初は、エズレル人のアヒノアムを母として生まれたダビデの長男アムノンが引き起こした。あるとき、アムノンは日ごとにやつれていき、とても憂鬱そうにしていた。それで彼の友人でダビデの兄弟シムアの息子(アムノンの従兄弟)でヨナダブという人が、「あなたは王子なのにどうしてそんなに憂鬱そうにしているのですか。どうか打ち明けてほしい」と言った。するとアムノンは答えて言った。
「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのだ」
 実際、アムノンはタマルを恋して病気になるほどだった。タマルはダビデの妻マアカの娘であり、非常に容姿が美しかった。そこでずる賢いヨナダブはアムノンに策を授けて言った。
「こうしなさい。あなたは病気を装って床に伏すのです。すると王はあなたを見舞ってくださるでしょう。その時、こう言いなさい。『妹タマルを寄こしてください。私の目の前で料理を作らせ、タマルの手から食べさせてください』と」
 人一倍情に厚い父王のことである。その報せを聞くと、すぐにアムノンを見舞った。アムノンは床に伏して病気を装い、ヨナダブの言うとおりにした。それで王はタマルのところに人を遣って、アムノンのために料理を作ってやるようにと伝えさせた。王の言葉である。タマルは何の疑いもなくアムノンの家に来て、レビボット(「心」という菓子)を作って焼き、アムノンの前に差し出した。しかしアムノンは食欲がないように見せかけて、召使たちは皆出て行くようにと言った。彼らが出て行くとアムノンはタマルに言った。
「料理をこちらに持って来てくれ。お前の手から食べたいのだ」
「はい、お兄様」
 タマルはアムノンの部屋に入って行き、近づいて食べさせようとした。するとアムノンはすばやくタマルの手を掴んで言った。
「妹よ。こちらにおいで。わたしと寝てくれ」
 タマルは激しく抵抗して言った。
「いけません、お兄様。そのような愚かなことはなさらないでください。わたしを辱めないでください。そのようなことはイスラエルでは許されていません。あなたもイスラエルの中で愚か者の一人となっておしまいになります」
「いいのだ、わたしはお前を愛しているのだ」
 アムノンは欲情に駆られて、耳を傾けようとはしなかった。
「いけません、お兄様。もしわたしを愛してくださっているのでしたら、どうか王にお話ください。王はあなたにわたしを与えることを拒まれないでしょう」
 しかしアムノンはタマルの気持ちを思い遣ることもなく、力ずくで彼女を辱めた。そのためアムノンは、そののちに彼女を激しく憎悪するようになり、声を荒げて言った。
「出て行け!」
「いいえ、それはできません、お兄様。わたしを追い出すことは、今なさったことよりももっと大きな罪です」
 タマルは答えた。しかし不誠実なアムノンの耳には何も入らず、従者を呼んで彼女を追い出して戸に錠を下ろさせた。タマルは、未婚の王女のしきたりによって縞模様の袖なしの上着を着ていたが、これを引き裂き、頭に灰をかぶり、泣き叫びながら去って行った。
兄アブサロムは、タマルに尋ねた。
「どうしたのだ?」
「お兄様!」
 タマルは泣き崩れた。
「お前はアムノンと一緒だったのだな」
アブサロムは、タマルの肩を抱いて唇を噛みしめた。その時アブサロムには一つの決意が生まれていたのである。
「分かった、泣くな。もう何も言うな。あれはお前の兄なのだ。このことは忘れるようにしなさい」
 アブサロムはそれだけ言って、その日からタマルを自分の家に引き取り、彼女は人々との交わりももたず、絶望的な日々を送った。
これらのことを聞いたダビデは、アムノンに対して激しく怒った。しかしアブサロムは、王にもアムノンにも何も言わなかった。アムノンを激しく憎んでいたからである。
 それから二年が経った年のことである。バアル・ハツォルに、アブサロムの羊を刈る者たちが集まった。この季節に行なわれる祭りのためである。アブサロムは王子全員を招待し、王にもお出でいただきたいと懇願した。しかし王は言った。
「いや、わが子よ、全員が行くこともあるまい。お前の重荷になってもいけない」
 王はそう言って、祝福だけを与えた。それでアブサロムはさらに言った。
「それでは兄アムノンが来るようにとお勧めください」
「なぜアムノンが行かなければならないのか」
 王は不審に思ったが、アブサロムが重ねて懇願するので、アムノンと王子全員が行くようにと取り計らった。アブサロムは従者たちに命じて言った。
「よいか、アムノンが酒に酔ったら、わたしが討てと命令する。そのときアムノンに襲い掛かって彼を殺せ。恐れるな。わたしが命じるのだ。勇敢な者となれ」
 アムノンが酔って上機嫌になり、その時が来た。アブサロムが二年間じっと耐えていた復讐の時が遂に来たのである。アブサロムは合図した。すると従者たちはアムノンに襲い掛かって彼を殺した。祝いの祭りは一瞬にして修羅場となった。他の王子たちは慌てて自分のラバに走り寄って一目散に逃げ出した。この騒ぎのことはすぐにダビデのもとに届き、王子たちが一人残らず殺されたと伝えられた。王は立ち上がって衣を引き裂き、地面に身を投げ出して泣いた。家臣たちも皆同じようにした。王子たちで名前の上がっているのが二十一人、そのほかに王女のタマル、そして名前の挙げられていない子どもたちも多数いたので、総勢は三十人ぐらいだったかも知れない。その王子たち全員が殺されたと聞いたのだから、ダビデの悲嘆は測り知れないものだった。しかし、そこへシムアの子ヨナダブが走って来て断言した。
「わが主なる王よ、王子の全員が殺されたと決して思われませんように。殺されたのはアムノン一人だけです。アムノンが殺されることは、アブサロムの妹タマルがアムノンによって辱められた日以来、定められていたことです。わが主なる王よ、王子全員が殺されたとお考えになりませんように」
 アムノンに悪知恵を授けてそのように行動させたヨナダブであったから、アブサロムの復讐がどのようなものであるかを充分に推測できたのである。そしてそう語っているうちに、目を上げて見ると、山腹のホロナイムの道をラバに乗って疾走してくる王子たちの群れが見えた。 
ヨナダブは言った。
「御覧ください。申し上げたとおり、王子たちが帰って来られました」
 父王のところにたどり着くと、王子たち各々が激しく泣いた。王も家臣たちも地面に倒れて泣いた。その間にアブサロムは、ゲシュルの王アミフドの子タルマイのもとに逃げた。アブサロムの母マアカはタルマイの娘であったからである。そしてアブサロムは、祖父タルマイ王のもとに留まっていた。
 
 このようにして、ダビデの犯した罪の報いは、長男アムノンが妹を犯すという悲劇を引き起こした。バト・シェバとの姦淫は大きな代償を払うことになったのである。ダビデはそのことで長男のアムノンを殺され、三番目の息子アブサロムも殺人の罪を負って去って行かなければならなかったのである。
それから、三年の歳月が流れた。タビデの心は深い悲しみに閉ざされたままだった。けれど、死者のことを悔やんでも、彼はもう戻っては来ないと諦めた。その事実を受け入れなければならなかった。また、逃亡しているアブサロムのことを思うと、かつてサウル王に追われていた自分のことが思われ、切ない気持ちであった。アムノンとタマルのことがなければ、アブサロムも復讐することはなかったのである。絶対に許せない気持ちと、わが子に対する愛情の狭間で激しく揺れていた。
そのダビデの気持ちを知っていたヨアブは、二人を和解させたいと思い、ひとつのことを実行した。テコアに住んでいた一人の賢い女を呼び寄せてこう言ったのである。
「あなたは喪に服している女性のように装ってほしい。喪服を着て、化粧もしないで長い間死者のために喪に服しているような様子で王の前に出なさい」
「はい、はした女がどのような使命を果たすのかを教えてください」
「よいか、王にこのように語るのだ。『実はわたしはやもめでございます。夫は亡くなりました。はした女には二人の子どもがおりましたが二人は畑のことでいさかいを起し、その間に入って助けてくれる者もなく、弟のほうが兄を殺してしまいした。一族の者が皆このはした女を責めて、「弟を引き渡せ。兄の命の償いに弟のほうを殺し、その跡継ぎも絶とう」と申します。はした女に残された火種を消して、夫の名も跡継ぎも地上に残させまいとしているのでございます』と」
 テコアの女は喪服を着て王の前に出ると、ひれ伏して言った。
「王様、お救いください」
「どうしたのだ、申してみよ」
 女はヨアブに言われたとおりのことを述べた。すると王は答えた。
「家に帰るがよい。お前のために命令を出そう」
 それから王は女に言った。
「これからわたしが尋ねることに正直に答えなさい」
「王様、どうかお話ください」
 王は言った。
「これらのことはヨアブの指図か」
「王様、あなたは生きておられます。何もかも王様の仰せのとおりです。わたしに命じたのはあなたの僕ヨアブですし、これらの言葉をわたしの口に置いたのもまさしく王様の御家臣ヨアブです。あの方がすべての事態を変えるためにこのようなことをされたのです。王様は神の御使いのような方ですから、地上で起こるすべてのことを御存知です」
「下がってよい」
 女を下がらせると、その後、王はヨアブに言った。
「よい、あの若者アブサロムを連れ戻すがよい」
 ヨアブは平伏して言った。
「わが主なる王よ、今日、僕は、王のご厚意に預かっていることを知りました。僕の言葉を聞いて実行してくださるからです」
 ヨアブは立ってゲシュルに向かい、アブサロムをエルサレムに連れ帰った。しかし王の前に出ることはできなかった。王が言ったからである。
「自分の家に向かわせよ。今はわたしの顔を見ることはできない」
 アブサロムは王に会うことができなかった。
 さて、その頃、イスラエルの中でアブサロムほど美しい男はいなかった。足の裏から頭のてっぺんまで非のうちどころがなかった。(サムエル第二 一四:二五)毎年の終わりには髪を刈ることにしていたが、それは彼にとってあまりにも重く、約二百シュケルもあった。また、彼には三人の息子たちと一人の娘が生まれ、娘はタマルと名付けられ非常に美しい女性であった。
 こうしてアブサロムはエルサレムへ帰って来ることはできたものの、二年経っても王の前に出ることは許されなかった。その間にアブサロムは、何度もヨアブを呼んだが彼は来なかった。そこでついにしびれを切らしたアブサロムは、ヨアブの畑に火をつけた。驚いたヨアブは飛んで来て、
「わたしの畑に火を付けるとは何事ですか!」と言った。
「わたしはお前に来てもらうために何度も使いを遣ったがお前は来なかった。わたしは王に会いたいのだ。このままでは、わたしはゲシュルにいたほうがよかった。何のためにゲシュルから帰って来たのか分からない。どうか王に会えるようにしてくれ。わたしに罪があるなら、死刑にするがよい」
 ヨアブは王のもとに行ってそのことを告げた。王は言った。
「よろしい。わたしはアブサロムに会おう」
 アブサロムは王の前に出て平伏した。
「アブサロム」
王は万感を込めて、我が子の名を呼んだ。
「はい、王様」
「お前の顔を見るのは五年ぶりだ」
「はい、お父上」
ダビデは未だアブサロムを許してはいなかったが、親としての情は抑え難く、自らアブサロムのところに近づいて、彼に口づけをした。

 しかしアブサロムは、ダビデのように神を愛し、神に忠実な人ではなかった。王に会った後、彼は早速五十人の戦車と馬、また、自分のための五十人の護衛兵を整えた。そして朝早く起きては城門への道の傍らに立った。そこは民たちが王に裁定を求めるために通る道筋だった。アブサロムは、そこを通る民に優しく声を掛けては、彼らが裁定を求めている話に耳を傾けて言った。
「あなたが訴えていることは道理だ。話に筋が通っている。だが、王のもとにはあなたの訴えを弁護し、公正に裁定する者はいないだろう。ああ、わたしなら、それができるのに」
 また、彼がアブサロムだと知って恭しく礼をする者がいるなら、そこへ走り寄ってその手を取って、その者を抱き、口づけするのだった。こうしてアブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエルの人々の心を巧みに盗み取っていた。
 アブサロムが四十歳になったとき、彼は王に願い出て言った。
「わたくしはアラムのゲシュルに滞在していたとき、エホバへ請願しました。もし神がわたしをエルサレムに連れ戻してくださるなら、生涯神にお仕えしますと。それでどうかわたしをヘブロンへ行かせてください」
 ヘブロンは、ダビデがユダ族の人々によって油注がれ、初めて王になったところであり、アブサロムの生まれ故郷でもあった。情愛に溢れるダビデは何も疑わずに言った。
「平和に行って来なさい」
 しかしアブサロムはそこでイスラエルの全部族に密使を送り、角笛の音を合図に、こう言うように命じた。
「アブサロムがヘブロンで王になった!」
 しかしアブサロムと共にエルサレムからついて来た二百人の者は何も知らされていなかった。しかし、この父王の王権を簒奪する陰謀には、ダビデの顧問官であったギロ人アヒトフェル(バト・シェバの祖父)が加わっていた。アブサロムの下に集まる民も次第に増えていった。
 その報せはすぐにダビデのもとに届いた。ダビデは直ちに家臣たちに言った。
「皆、すぐにここから逃げるのだ! さもないとアブサロムはこの町を攻めてくるだろう。この都を剣にかけてはならない」
 ダビデエルサレムを聖都と定めており、それを汚してはならないことを定めていた。そしてあんなにも愛していたわが子アブサロムの反逆をエルサレムで迎えるつもりもなかった。しかも彼が犯した罪を許して忘れようとしていた矢先であった。しかしその災いも、ナタンが預言したように、ダビデ自身が犯した罪の報いであった。ダビデはそのことをよく知っていた。そこで、王宮を守らせるために十人の側女を残して、全員で都を出て行った。まさか愛する自分の子どもに追われることになろうとは思ってもいないことだった。
 王を先頭にして人々は皆、その後に従った。その中には、イスラエル人のほかにクレタ人、ペレティ人、ガト人六百人もいた。ガトの人はギト人とも呼ばれていたが、彼らはダビデがサウルに追われて逃げていたとき、ダビデの忠節な人柄に引き寄せられて、その後もずっとダビデに従っていた人たちであった。そのなかの一人に、ガト人イタイがいた。王は言った。
「イタイよ、なぜお前までがわたしと一緒に逃げていくのだ。お前は昨日来たばかりではないか。お前は亡命者の身分だ。そしてわたしは今日、再び放浪者になるのだ。あなたはガトの王のもとに戻りなさい。エホバがあなたに慈しみを示されるように」
 イタイも答えて言った。
「わが主なる王よ。エホバは生きておられ、あなたも生きておられます。わたしが生きるのも死ぬのも、わが主、王なるあなたがおられるところです」
「お前がそう言うのであればよろしい、一緒に来なさい。わたしは逃れられるところまで逃れるだけだ」
 イタイは、彼と共にいた人たち、兵士も大人も子どもも大勢を引き連れてダビデに従った。そしてキドロンの谷を渡って荒野の道を進んで行った。その大集団のなかには、預言者であり祭司であったツォドク、アビアタル、そしてレビ人全員が「契約の箱」を担いでいた。それを見てダビデは言った。
「神の箱は都に戻しなさい。わたしがエホバの御心に適うのであれば、神の箱のあるところに連れ戻してくださるであろう。エホバがわたしを愛さないといわれるのであれば、わたしは再び都に帰ることはないだろう。神の御目によいことをしてくださるであろう」
 どうなるにしても、神の御意志に従うだけだ、ダビデには何時どのような時にも、この揺るぎない信仰があった。そしてダビデは祭司ツォドクに言葉を続けた。
「よいか。平和にエルサレムに戻って行きなさい。あなたの息子のアヒマアツと、アビアタルの子ヨナタン、この二人の息子を連れて帰りなさい。わたしは、あなたたちの報せが届くまで荒れ野の渡し場で待っている」
 その後の、都の状況を連絡してもらうために彼らを残したのだった。悲しいことだった。王でありながら、いいえ、王であるがゆえに、わが子から逃れて荒野に出て行かなければならなかったのである。しかしいつのときにも、彼が王であってもなくても、彼の忠実さ、剛毅さ、優しさ、そして神を愛するゆえの真実の愛が、ダビデとなら生死を共にしてもいいと思わせているのだった。そして行く先々では、ダビデを惜しみなく支援する人々が彼を待ち受けているのだった。神に愛され、人々にも愛される、そのような特質をダビデはもっていた。
 とは言うものの逃げて行くダビデは、手で頭を覆い、裸足で泣きながらオリーブの山の坂道を上って行ったのである。同行した家臣、兵士たちもみな裸足だった。みんな号泣しながら歩いて行くのだった。
 その時のことをダビデはこう詩っている。

主よ、わたしを苦しめる者は
  どこまで増えるのでしょうか。
多くのものがわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います。
「彼に神の救いなどあるものか」と。

 主よ、それでも
 あなたはわたしの盾、わたしの栄え
 わたしの頭を高くあげてくださる方。
 主に向かって声を上げれば
 聖なる山から答えてくださいます。

 身を横たえて眠り
 わたしはまた目覚めます。
 主が支えてくださいます。
 いかに多くの民に包囲されても
 決して忘れません。

 主よ、立ち上がってください。
 わたしの神よ、お救いください。
すべての敵の額を打ち
神に逆らう者の歯を砕いてください。

救いは主のもとにあります。
 あなたの祝福が
  あなたの民の上にありますように。(詩編三編)

 最愛の子どもの反逆に遭い、命を狙われる。泣きながら王宮から逃れて行くダビデ。父王としての悲しみ、屈辱、子どもに対する屈折した愛。それがダビデの心を苦しめた。それでも、ダビデは決して人間に頼らず、神に頼り、神は必ず助けてくださる、という強い確信をもち続けていた。「彼に神の救いなどあるものか」と言われても、主に向かって声を上げれば答えてくださる、神が祝福してくださる、と詩っている。安らかなときに神に感謝することは誰にもできるが、このような屈辱にまみれた悲しみの極限にあるときに、神を信じて祝福を願い求めることは容易なことではない。それだけに、ダビデの絶対的な信仰の強さが伺える祈りである。
そんな時、また追い討ちがかかった。ダビデの顧問官であり、ダビデが絶対的に信用していたアヒトフェルがアブサロムの陰謀に加わっているという報せであった。この信じていた友の裏切りは大きな衝撃であった。その時のダビデの心境である。

主よ、彼らを絶やしてください。
彼らの舌は分裂を引き起こしています。
わたしには確かに見えます
   都に不法と争いのあることが。

それらは昼も夜も、都の城壁の上を巡り
街中には災いと労苦が
町中には滅びがあります。
広場からは搾取と詐欺が去りません。

わたしを嘲る者が敵であれば
   それに耐えもしよう。
わたしを憎む者が尊大に振舞うのであれば
   彼を避けて隠れもしよう。
だが、それはお前なのだ。
わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。
楽しく、親しく交わり
神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。

死に襲われるがよい
生きながら陰腑に下ればよい
住まいに、胸に、悪を蓄えている者は。
 わたしは神を呼ぶ。
 主はわたしを救ってくださる。
夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。
神はわたしの声を聞いてくださる。
闘いを挑む者が多くの者のただ中から
わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。
神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。
   神はいにしえからいまし
   変わることはない。
その神を畏れることなく
彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。
口は脂肪よりも滑らかに語るが
心には闘いの思いを抱き
言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。

あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。

神よ、あなた御自身で
   滅びの穴に落としてください
欺く者、流血の罪を犯す者を。
彼らが人生の半ばにも達しませんように。
わたしはあなたにより頼みます。(詩編五五:一〇―二四)

共に語らい、共に親しく神殿の中を行き来した者が陰謀に加わり、ダビデの命を側に立っていたのである。親友であったアヒトフェルは、王位簒奪のクーデターの有力なメンバーになっていた。ダビデの驚愕と悲嘆は深いものであった。彼らは王であるタビデを嘲り、昼も夜も城壁を巡り、詐欺と搾取で都に災いをもたらしていたのである。彼らの言葉は、脂肪よりも滑らか、香油よりも優しかったが、抜き身の剣に等しかった。それでダビデは、夕べも朝も昼も、悩み苦しみ呻いていた。人間関係に悩む姿は、王も庶民も同じこと、古代も現代も変わらない。それでもダビデの心には、すべてのことを公正に裁かれる神がいた。その基軸が揺らぐことはなく、彼は神を信じて、神により頼んだ。それがダビデの生き方であり、現実そのものであった。それゆえに、エホバは彼を祝福され、将来、この地上に樹立されることになっている『神の王国』の王となられるイエス・キリストへと至る先祖とされ、その経路と定められたのである。

それで、アヒトフェルの裏切りを聞いたとき、ダビデはすぐに祈った。「エホバよ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と。しかし、その一方でダビデには無私の親友もいた。アルキ人(ノアの子ハムの子孫)フシャイである。ダビデたちが山に上って行くと、何とそこには頭に泥を被り、衣を引き裂いたフシャイが立っていた。危難の時の友はダビデと行動を共にしたいと思っていたのだった。しかしダビデは言った。
「フシャイ、あなたは都に帰ってくれ。そしてアブサロムにこういうのだ。『王よ、わたしはあなたの僕です。わたしは以前あなたの父上の僕でしたが、あなたが王になられたのですから、今日からはあなたの僕です』と」
「どうしてですか、王よ、なぜわたしがアブサロムにお仕えしなければならないのですか?」
「フシャイ、あなたしかいないのだ。アヒトフェルはアブサロムのところへ去った。彼の助言は重んじられることだろう。しかし、あなたなら彼の助言を覆すことができる。そしてあなたは、そこでの陰謀の一部始終を、都に残っている祭司ツァドクとアビアタルに伝えてくれ。そうするなら、ツァドクの息子アヒマアツと、アビアタルの息子ヨナタンを通して、わたしがすべてを聞くことができる」
「分かりました。きっとアヒトフェルの計画を破ってみせましょう」
 こうしてフシャイは、エルサレムに入城したアブサロムのところへ行った。アブサロムはイスラエル人の兵士全員を率いて、ダビデのいた都に入っていたのである。
 その後、ダビデたちが山から下って行くと、ヨナタンの子メフィポシェトの従者であるツィバという人が待ち構えていた。彼は抜け目のないずる賢い人で、二頭のロバを連れており、その背に二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでいた。
「それは何だ?」
 ダビデが尋ねると、ツィバは恭しく頭を下げて言った。
「はい、わが主なる王よ、ロバは王様の御家族がお乗りになるために、パンと果物は従者たちが食べるために、ぶどう酒は荒野で疲れた方ののどを潤すためのものでございます」
ダビデはさらに言った。
「お前の主人の息子はどこにいるのか」
エルサレムに留まっています。彼は今日、イスラエルの家は父の王座をわたしに返す、と申しておりました」
 ツィバは、今はメフィポシェトの従者でありながら彼を中傷し、ダビデの好意を得たいと画策しているのであった。ダビデは答えた。
「よろしい。メフェポシェトの物はみなお前のものだ」
 ツィバは言った。
「わが主なる王よ、心からお礼を申し上げます。主君である王様の御厚意に預かることができますように」
 ダビデも追われている混乱の時だったので、ツィバの偽善を見抜くことができなかった。
 また、ダビデがバフリムにさしかかると、そこからサウル家一族の出で、ゲラの子シムイがダビデを呪いながら近づいて来た。彼は王権が、サウルの家からダビデの家に移ったことを、長い間恨みに思っていた人である。シムイは言った。
「出て行け! 出て行け! 流血の罪を犯した男。ならず者。サウルの家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、エホバは報復されているのだ。だからお前は災いを受けているのだ。神はお前の息子アブサロムに王権を渡されたのだ」
 ダビデの傍には、兵士や勇士たちが付いているのに、シムイは呪いの言葉を吐き続けた。それでツェルヤの子アビシャイが王に言った。
「どうかわたしに、あの者の首を落とさせてください。どうしてあの死んだ犬などにわが主なる王を呪わせておいてよいでしょうか」
 だれもが、シムイの嘲笑を一太刀のもとに切り捨てたいと思っていたのである。しかしダビデは言った。
「アビシャイよ、お前に何の関わりがあるのだ。あの男はエホバが呪えとお命じになったので呪っているのであろうから、『どうしてそんなことを言うのか』と誰が言えようか。わたしは今、わたしの身から出たわが子に命を狙われているのだ。まして彼はベニヤミン人だ。わたしを呪うのは仕方のないことだ。きっとエホバの御命令で呪っているのだ。そうであれば、神がわたしの苦しみを御覧になって、呪いを幸いに換えてくださるかも知れないではないか」
 ダビデはいつも神の視点を忘れなかった。敵に呪いの言葉を投げかけられても、それを受け止める度量があった。どんなに我が身に苦難が臨むことがあっても、決して神を恨んだり、見失ったりすることがなかった。逆にエホバの御命令で呪っているのだ、と言えたのである。ベニヤミン人シムイは、ダビデと並行してどこまでもついて来て、石を投げ、塵を浴びせかけて飽くこともなく呪っていたのである。

 他方、ダビデのために情報を得ようと、アブサロムの懐に飛び込んでいったアルキ人フシャイは、アブサロムの前で言った。
「王様、万歳。王様、万歳」
 アブサロムは言った。
「どうしたというのだ。お前の友に対する忠実とはそのようなものだったのか。なぜお前の友について行かなかったのか」
「いいえ、王様。イスラエルの民が選んだ方にわたしは従い、わたしはその方にお仕えします。その方はわたしがお仕えしたお父上のご子息であるあなた以外のだれもいません」
 フシャイは巧みにアブサロムの心をつかんだ。
 後にアブサロムはアヒトフェルに言った。
「我々はどうするべきか、お前の意見を述べてみよ」
アヒトフェルは言った。
「王様、まずはお父上の側女のところにお入りになるのがよろしいでしょう。彼女たちは王宮を守るために残されておりますから。そうするならあなたはお父上の憎しみの的となります。そのことでイスラエルの兵士たちは奮い立つことでしょう」
 その画策は非常に良いように思えたので、アブサロムは早速屋上に天幕を張り、全イスラエルの民の前で側女たちと関係をもち始めた。そしてその行為は、実は、ダビデがヘト人ウリヤを殺してその妻バト・シェバを奪ったときに、預言者ナタンが神の言葉としてダビデに伝えた、その預言の成就となった。ナタンは神の預言をこう伝えたのである。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに悪をはたらく者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行なったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行なう。』(サムエル記下 一二:一一、一二)ゆえに、確かにアヒトフェルの画策の背後には、神の御意志がはたらいていたのであった。もちろんアヒトフェル自身の知らないことだった。
そしてもう一つ、アヒトフェルがアブサロムにした助言があった。彼はこう言ったのである。
「王様、私に一万二千の兵士を与えてください。そうすれば私は今夜のうちにも出発してダビデを追跡しましょう。ダビデの兵士たちが荒野で疲れきって力を失っているところを襲撃すれば、兵士たちはたちまちにして逃げ出すことでしょう。わたしは王一人を討ち取ります。そして兵士たちの全員を連れ帰ります。そうするならイスラエル全体に平和が戻ることでしょう」
 アヒトフェルの語る言葉は、常に神託のように重く受け止められていたのであった。しかしアブサロムは言った。
「アルキ人フシャイを呼べ。彼の意見も聞いてみよう」
そしてフシャイが呼び出された。アブサロムは、アヒトフェルの提案を述べてから、「反対ならお前の提言を述べてみよ」と言った。そこでフシャイは、アヒトフェルに敬意を示しつつ巧みに言った。
「この度のアヒトフェルの提案は良くありません。お父上とその兵士たちがどれほど勇敢であるかはあなた御自身がご存知です。しかも彼らは荒野で子を奪われた熊のように気が荒くなっております。あなたのお父上は戦術に秀でた戦士でいらっしゃいますから兵士と共にお休みになることはありません。今頃はどこかの洞窟に身を隠しておいででしょう。そして最初の攻撃に失敗すれば、アブサロムの軍は不利になったと考えますから、ライオンのように勇敢な者であっても弱々しくなってしまいます。なにしろお父上に従う戦士たちがどれほど勇者であるかは、全イスラエルの兵士たちがよく知っているからです。ですから、王様、わたくしはこのように提案いたします。まず王の下に、ダンからベエル・シェバに至る全土から兵士を集結させてください。それは海辺の砂粒のように多くなることでしょう。そして王御自身がそれを率いて戦闘に出られることです。そうするなら、全兵士の士気が上がることでしょう。そのうえで、どこかに隠れておられますお父上を襲いましょう。露が土に降りるようにもれなく彼らに襲いかかれば、彼に従う兵士がどんなに強くても多くても、一人残らず捕獲することができるでしょう。お父上がどこかの小さな町に身を寄せておられるなら、全イスラエルがその町に縄をかけて曳いていきましょう。小石一つ見逃すことはありません」
 フシャイは少しでも時間を稼ぎたかった。ダビデとその兵士たちは、荒れ野の渡し場で夜を過ごさずに、とにかく急いでヨルダン川を渡って行かなければならなかったからである。またその間にアブサロム側の状況をダビデに知らせなければならなかった。それでぜひとも全兵士を集結させるようにと強調したのであった。それでアブサロムとイスラエルの兵士たちには、フシャイの提案のほうがアヒトフェルのそれよりもよいと思えたので彼の意見に従うことになった。アブサロムに災いが下ることを神が定めておられたからである。(サムエル記下 一七:一四)
 こうしてフシャイは、事の一部始終を祭司ツァドクとアビアタルに伝えることができた。そしてその報せは、一人の女が走って、ツァドクの息子アヒマアツとアビアタルの息子ヨナタンに伝えられた。二人もダビデに伝えるべく走った。しかしアブサロム側の一人の若者がそれらのことを知ってアブサロムに通報したので、二人はバフリムの一軒の家に逃げ込み、その家の井戸のなかに隠れた。するとその家の女がその井戸の上に覆いをかけ、脱穀した麦を広げたので危機一髪、二人を追いかけてきたアブサロム側の部下たちはそれを見過ごして行った。それで二人は無事にダビデの下にたどり着くことができ、フシャイの提案がアヒトフェルの提案を覆したことを伝えた。その情報を得たダビデは、直ちに兵士全員とヨルダン川を渡った。夜明けまでには一人も残らず川向こうに逃れることができたのである。
 他方、アヒトフェルは、自分の助言が退けられたことを知って、ロバに鞍を置いて自分の家のある町へ帰り、そこで首をつって死んだ。


   三 アブサロムの死
  
 
ダビデの一行が川を渡ってマハナイムに着いたころ、アブサロムとその軍隊もヨルダン川を渡った。アブサロムのイスラエル軍の司令官はアマサであった。彼の母はヨアブの母ツェルヤの姉妹でアビガルという人であった。つまりアマサはダビデの甥であり、ダビデ軍の司令官ヨアブの従兄弟であった。そのイスラエル軍は、ギレアドの地に陣を敷いた。ダビデ軍は急いでエルサレムを離れたので、ほとんどが着の身着のまま、食糧さえあまり持っていなかった。しかしマハナイムに着くと、ダビデの忠節な臣民であったラバ出身のアンモン人ナハシュの子ショビ、ロ・デバル出身のアミエルの子マキル、ロゲリム出身のギレアド人バルジライなどが、寝具、たらい、陶器、小麦、大麦、麦粉、炒り麦、豆、レンズ豆、蜂蜜、凝乳、羊、チーズなどの多量の食糧を携えて迎えてくれた。兵士たちが荒れ野で飢え、渇き、疲れているにちがいないと思ったからである。しかしその数は何万人であった。そのような地味で堅固な支援がなければ、ダビデは戦うことさえできなかったのである。

 戦術に長けたダビデは、兵士を千人、百人隊に分隊した。それを三つの部隊にし、ツェルヤの子ヨアブとアビシャイ、ガト人イタイの指揮下に置いた。そして王は言った。
「わたしもお前たちと共に出陣する」
 兵士は答えて言った。
「いいえ、わが主なる王よ、王は出陣なさってはいけません。あなたは我々兵士の一万人にも匹敵するお方です。敵は、我々が逃げ去ったとしても気にも留めないでしょう。我々の半数が戦死したとしても気に留めないでしょう。しかし王は違います。ですから、王は都に留まってくだい。そのほうが我々を助けてくださることになるのです」
「お前たちが良いと思うようにわたしもしよう」
 王はそう言って、都の城門の所に立ち、百人隊、千人隊となって出陣する兵士たちを激励しながら見送った。そしてそのとき王は、ヨアブ、アビシャイ、イタイに命じてこう言ったのである。
「若者アブサロムを手荒く扱わないでくれ。やさしく扱ってくれ」
 その言葉には、息子に反逆され、命を狙われている王でありながら、父親としての悲痛な思いが込められていた。兵士は皆その言葉を聞いていた。

 戦闘はエフライムの森の中で起こった。そして密林全体に広がった。しかし戦闘が始まって間もなく、イスラエル軍は勇者の多いダビデ軍の前にあっけなく崩れた。その日、兵士二万人が戦死し、エフライムの森は血で染まったのである。
アブサロムは慣れない戦闘に圧倒され、従者たちとも離ればなれになってしまった。そして気がつくと、目の前にダビデ軍の兵士が壁のように立ちはだかっていたのである。そのときアブサロムはラバに乗っており、逃げようとしてラバを走らせた。ところがラバは樫の大木の下を通ったので、アブサロムはそのからまり合った枝のなかに頭をひっかけてしまった。しかしラバはやみくもに走ったので、アブサロムは天と地の間に宙吊りになってしまったのである。これを見た兵士の一人が急いでヨアブに知らせた。
「アブサロムが樫の木の枝に頭をひっかけて宙吊りになっているのを見ました」
 ヨアブは言った。
「見たのなら、その場で殺したか」
「いいえ」
「なぜ殺さなかったのか。殺していたなら、銀十枚と革帯一本を与えたであろうに」
 ヨアブは勇敢な戦士、有能な司令官ではあったが、人間味に乏しく冷徹であった。兵士は答えた。
「たとえこの手のひらに銀千枚を置いてくださるとしても、わたしは王子を手にかけることはいたしません。王があなたとアビシャイ、イタイに、若者アブサロムを優しく扱ってくれ、と命じておられたことを我々も耳にしました。ですから、仮にわたしがアブサロムの命を奪うことができたとしても、わたしは王に対する不実な振る舞いは致しません。神の御使いのような王を欺くことはできないからです。あなたもわたしも神の御前に正しいことをしたとは言えないのです」
「もうよい。お前の目の前でわたしが止めを刺させてもらおう」
 ヨアブは兵士に案内させて樫の樹木の下に来た。まさしくアブサロムの首は、木の枝に引っかかり、宙吊りになっていた。しかしまだ生きていた。それが分かっていながらヨアブは、三本の矢柄を手にすると、何のためらいもなくアブサロムの心臓を目がけて矢を放った。それから彼の十人の武器持ちがアブサロムを取り囲んでさらに打ちのめしてから止めを刺した。無情で残忍な殺し方であった。しかしヨアブには少しの躊躇もなかった。
 敵将を殺したヨアブは、角笛を吹いてイスラエル軍の追跡を止めさせた。それから、アブサロムの死体を引きずり降ろすと、森の中の大きな洞穴に投げ込んだ。そしてその上に石を積み上げて大きな塚を作った。こうしてイスラエル軍は敗北し、生存者は皆散り散りになって逃げて行った。
 この戦況の有様を通報するために、二人の急使がダビデのもとに走った。一人はクシュ人の若者であった。ヨアブは彼に命じた。
「よいか。お前が見たとおりのことを報告せよ」
 彼はヨアブに一礼をして走り始めた。しかしもう一人、ツァドクの子アヒマアツがヨアブに願い出て言った。
「どうか、わたしを走らせてください。エホバが王を敵の手から救ってくださったという良い知らせを、ぜひともわたしに務めさせてください」
 ヨアブは答えて言った。
「アヒマアツ、今日はお前が走るべきではない。王の子息が死んだのだ。お前が伝えるべきことではない。お前はもっとよい報せをもって走りなさい」
 それでもアヒマアツは言った。
「どんなことが起きても、クシュ人を追って走らせてください」
 ついにヨアブも彼の熱意に負けて、「走りなさい!」と言った。そしてアヒマアツはヨルダン地域の道を通って走り、先に走ったクシュ人の若者を追い越した。
 さて、ダビデは二つの城門の間に座って報せを待っていた。城門の屋根には見張り番の男がおり、彼の目にただ一人の男が走って来るのが映った。彼は王に言った。
「見えました。ただ一人です」
「一人だけならば良い報せであろう」
 王は言った。王の気がかりなことはただ一つ、アブサロムの安否だけだった。しかし、見張りの男はもう一人の男が走って来るのを見た。
 ついに先に到着したのはアヒマアツのほうであった。彼は城門にたどり着くと、倒れ込みながら、
「王に平和を!」
と叫んで地にひれ伏した。
「わが主なる王の神エホバがほめたたえられますように。神はわが主に向かって手を上げた者どもを引き渡してくださいました!」
 ところが、王は椅子を蹴って立ち上がった。
「アブサロムは無事か!」
「わたしが走り出したとき、大騒ぎが起こっていましたが、何も知りません」
 アヒマアツはアブサロムの死を告げることができなかったのである。そこで王は言った。
「脇によって立っていなさい」
 そこへクシュ人の若者が到着した。彼は言った。
「わが主なる王よ、よいお報せをお聞きください。神エホバは、今日あなたに逆らい立った者どもの手からあなたを救ってくださいました」
 王は、また言った。
「我が子アブサロムは無事か!」
 クシュ人は地に伏して言った。
「わが主なる王の敵、あなたに危害を加えようとして逆らい立った者はすべて、あの若者アブサロムのようになりますように」
 するとダビデは両手のこぶしを握りしめて身を震わせた。それから泣きながら城門の上の部屋に入って行った。
「我が子アブサロム! わたしの息子、我が子アブサロムよ! お前の代わりにわたしが死ねばよかったのだ。ああ、アブサロム、我が子アブサロム!」
 ダビデは子どものように泣き叫んだ。
 王が息子アブサロムの死を悼んで泣き悲しんでおられる、という知らせは、ヨアブと全兵士が聞くところとなった。それで戦いの勝利は喪の日に変わり、兵士たちはまるで戦場を脱走してきた兵士が我が身を恥じているかのように、忍ぶようにして都に戻って行った。それでも王は両手で顔を覆い、大声で泣き叫んでいた。
「我が子アブサロム、アブサロム、我が子よ、我が子よ!」
 ついにヨアブは、泣き叫んでいる王のもとへ行って言った。
「王よ、あなたは今日、あなたのお命、王子や王女、王妃や側女たちのお命を救った家臣、兵士たちの顔に泥を塗られました。王は、あなたを愛している者を憎み、あなたを憎んでいる者を愛しておられたことを明らかにされました。この日、王の目には、あなたの息子アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたほうが良かったことでしょう。しかしそのことによって、わたしたちは今日、将軍も兵士たちも、あなたの息子アブサロムの前にあっては全く無に等しい存在であるということを知りました。王よ、わたしは誓って申し上げますが、今すぐに立って外に出て、家臣や兵士たちの心に語りかけてください。さもないと、今夜、王と共に過ごす人は一人もいないでしょう。それはこれまで王が経験されたどんな災いにも増して大きな災いとなることでしょう」
 ヨアブは、ただ私情に溺れている王の将来を気遣ってはいたが、自分がどのように王の息子を殺したかは告げなかった。もし王がそれを聞いていたなら、王は「ヨアブを殺せ!」と叫んでいたことであろう。しかし冷静さを取り戻したダビデは、ヨアブの助言は正しいと思ったので素直に立ち上がり、城門の王の席に着いた。すると兵士たちはみな安堵した。
「王がお顔を見せてくださった」
 兵士たちは王の前に集まって喜んだ。
 ダビデの時代、王と臣民は一体であった。悩みごとがあると臣民は王の前に出て訴えることができ、王はそれを裁いていたのであるから、王の喜びは民の喜び、王の悲しみは民の悲しみだったのである。それだけに、王は良きにつけ悪しきにつけ、民の強力な牽引車であった。その点、カリスマ性においてダビデほど強力な人はいなかったのである。


   四 再びエルサレム
 

アブサロムの反逆は、その死を以って終わった。大敗北を喫したイスラエル軍はそれぞれの天幕に逃げ帰ったが、そこでイスラエルの長老たちの間で新たな議論が生まれた。
「我々が油注いで王としたアブサロムは戦いで死んでしまった。だが、ダビデ王はそのアブサロムのために国外に逃げておられる。ほんとうのところ、ダビデ王こそ我々をペリシテ人の手から救ってくださったのではなかったのか。どうしてみんな黙っているのだ。我々の王はダビデではないのか。王を連れ戻そうではないか」
イスラエルの民のその声は津波のように広がって行き、そのことはダビデの耳に届いた。機は熟していたのである。そこでダビデは、祭司ツァドクとアビアタルのもとに人を遣わしてこう言った。
「ユダの長老たちにこう言ってくれ。あなたたちは王を王宮に戻すのに遅れをとるのか。あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか。王を連れ戻すのに遅れをとるのか。アマサに対してはこう言ってくれ。お前はわたしの骨肉ではないか。ヨアブに代えてこれから先ずっと、お前を我が軍の司令官に任じないなら、神が幾重にもわたしを罰してくださるように」(サムエル記下 一九:一三、一四)
 王を受け入れる態勢は整った。それで王は帰途につき、ヨルダン川の側まで来た。するとユダの人々はヨルダン川を渡るのを助けようとして、ギルガルまで来ていた。そのなかには、ダビデが逃げて行くとき、ダビデを罵倒して呪い、石や土を投げつけたサウル王家に属するベニヤミン人ゲラの子シムイがいた。彼は王がヨルダン川を渡ろうとしたとき、王の前にひれ伏して言った。
「わが主なる王よ、王がエルサレムを出られた日に、この僕が犯した罪をお忘れください。心にお留めになりませんように。わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、ヨセフの家のだれよりも早く、わが主なる王をお迎えしようとして下って参りました」
 彼はベニヤミン族の千人を率いていた。しかし、ツェルヤの子アビシャイは怒って言った。
「シムイが死なずに済むことがあるでしょうか。エホバが油注がれた方をののしり、石や土を投げたのです」
 だが、王は答えて言った。
「ツェルヤの息子よ、お前に何の関わりがあるというのだ。今日、イスラエル人が死刑になって良いだろうか。わたしは今日、イスラエル全土の王であることを知らないとでも思っているのか」
 そしてシムイに向かってはこう言った。
「安心しなさい。今日、わたしがあなたを死刑にすることはない」
 けれど、ダビデは死の直前、ダビデの王権を継いだ息子ソロモン王に、シムイの白髪を血に染めずに墓に下らせてはならないと言い遺している。一度は容赦されたシムイであったが、ソロモン王と交わしたある約束を破ったことによってそのことは現実となった。ダビデには、統治者としての鋭い能力が備わっており、人をいつ、どのように用いるかを、常に高い視点で見ていたのである。
 もう一人、相変わらず抜け目なく、何時でもずる賢く行動する人が王を迎えに来ていた。サウル家の従者であったツィバである。彼は十五人の息子と二十人の召使を率いていた。彼はヨナタンの子メフィポシェトに仕えていながら、主人のことを中傷し、それを真に受けたダビデから、メフィポシェトの土地を全部もらった人である。彼はこの度も王の厚意を得るために、王が川を渡るのを助けようと思って来ていたのであった。しかし王が川を渡り終えて進んで行くと、ツィバに土地を奪われたメフィポセト自身が王を迎えに下って来ていた。彼はヨナタンに似て誠実な人で、ツィバによって欺かれたにも関わらず、王が無事にエルサレムに帰還される日まで、ひげもそらず、衣服も洗わず、足も洗わないという誓いを立てて、待っていたのだった。ダビデは言った。
「メフィポシェトよ、あなたはなぜわたしと一緒に行かなかったのか」
 彼は答えて言った。
「わが主なる王よ、ツィバに欺かれたのです。僕は足が不自由ですから、ロバに乗って行こうと考えておりました。ところがあの僕が、我が主なる王にわたしのことを中傷したのです。しかし我が主なる王よ、あなたは御使いのような方ですから、王の目に良いと思えることを行なってください。父の家の者はみな死に価する者ですのに、この僕を王の食卓に着かせてくださいました。このうえ何を求めることができるでしょうか」
 王は言った。
「もうよい。自分のことを話す必要はない。わたしは命じる。あなたとツィバは畑を分け合いなさい」
 メフィポシェトは言った。
「我が主なる王が無事にお帰りになったのですから、畑の全部でもツィバに取らせてください」
 渡る前のヨルダン川の向こうでは、都に帰るダビデを見送って、別れなければならない人たちがいた。ギレアド人バルジライである。彼は王に付いてヨルダン川まで歩いて来た。彼は大変裕福な人だったので、ダビデがマハナイムに滞在している間、彼が王たちの生活を支えていたのだった。王はそれに報いたいと思ってバルジライに言った。
「バルジライ、わたしと共に来てください。エルサレムのわたしのもとであなたのお世話をしましょう」
 バルジルライは王に答えた。
「わたしは今日、八十歳です。王と共に上って行っても、わたしはあと何年生きられるでしょうか。善悪の識別力もなくなり、何を飲んでも何を食べても味がなく、歌い手たちの声も聞こえなくなるでしょう。このうえ、どうして王の重荷になれるでしょうか。王が僕に報いてくださることなど何ひとつ行なっていません。どうか僕が帰って行くのをお許しください。父と母の墓のあるわたしの町で死なせてください。しかし、ここに王の僕キムハム(おそらくバルジルライの子ども)がいます。これにわが主なる王のお供をさせてやってください」
 王は答えて言った。
「それではキムハムにわたしと共に来てもらおう。あなたの目に良いと思えることを彼にしよう」
 ダビデは人を見ず、ただその人の行いに対して誠実に報いる人だった。王になってもそれは変わらず、神はその公正さ、忠実さを愛された。王はバルジライに口づけをして彼を祝福し、それから兵士たちと共にヨルダン川を渡って行った。
しかしその途中で、ベニヤミン人ビクリの子シェバが、またもダビデに反逆するようにイスラエルの人々をあおった。
「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に還れ。」(サムエル記下 二〇;一)
 シェバは、イスラエルの十部族の人々とユダ族の人々が、互いに王の問題に関してしっくりといっていないことを利用しようとした「どうしようもない男」であった。それでもイスラエルの民の中には、ダビデを離れてシェバに従う人たちもいた。このことを重視したダビデは、エルサレムに帰るとすぐにユダ軍の司令官であるアマサに命じて言った。
「ユダの人々を三日のうちに召集しなさい」
 ユダ軍の司令官はずっとヨアブであったが、その時ヨアブはその地位を解任されていたと思われる。もしかすると、アブサロムの件でダビデの不興を買っていたのかも知れない。しかしアマサは、ダビデが指定した日に兵士を召集することができなかった。そこでダビデはツェルヤの子アビシャイに言った。
「我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ。彼が砦の町々を見つけて我々から隠れることがないようにすぐに追跡しなさい」
 ヨアブの兵士と、クレタ人、ペレティ人、そして勇士の全員が、アビシャイに従ってシェバを追跡するために出て行った。そして彼らがギブオンの大石があるところにさしかかったとき、出遅れたアマサが彼らの前に現れた。ヨアブはその時を待っていたかのようにアマサの前に立った。ヨアブは武装しており、剣をさやに入れて腰に帯びていた。ヨアブが一歩アマサに近づいたときヨアブの剣が抜け落ちた。
「兄弟、無事か」
ヨアブは、アマサに口づけをする振りをして右手でそのひげをグイと掴んだ。アマサは何も警戒していなかったので、ヨアブの手にある剣に気がつかなかった。ヨアブは左手に持った剣でアマサの下腹を突き刺した。血が噴き出し、腸が地に流れ出た。その力は強かったので、二度、突くまでもなくアマサは即死した。そしてヨアブは、血まみれのアマサの死体をそのまま道の真ん中に転がして去って行った。後から来た兵士たちがみな立ち止まってそれを見た。それでヨアブの従者の一人が、みんながそこで立ち止まるので、その死体を畑に移し、その上に衣を掛けた。そして叫んだ。
「ヨアブを愛する者、ダビデに味方する者は続け!」
 こうしてアマサは無惨に殺され、兵士はみなヨアブの後について行った。おそらくヨアブは自分の地位を奪ったアマサが出世の邪魔だと思ったのであろう。そのためには流血の罪もいとわない人だった。その前、サウル王の軍隊の司令官であったネルの子アブネルを殺したのも私的な恨みからだった。
シェバはベト・マアカのアベルに来ていた。そこまで追跡して来たヨアブの兵士は、ついにシェバを包囲した。彼らは外壁の高さほどの塁を築いて城壁を崩そうとしていたのであった。するとその町の中から知恵のある女が一人出て来て呼ばわった。
「聞いてください。申し上げたいことがあります。ヨアブさまに伝えてください」
「わたしがヨアブだ」
「はした女の言葉を聞いてください」
「聞こう」
「わたしはイスラエルのなかで平和を望む者です。あなたはなぜ、イスラエルの母なる町、神が与えてくださった嗣業の地を滅ぼそうとされているのですか」
「決してそのようなことは考えていない。この町にダビデに手を上げたエフライム出身のビクリの子シェバが逃げ込んだのだ。その男を一人渡してくれればこの町から引き上げよう」
「その男の首を城壁の上から投げ落とします」
 女はそう言うと、町の人たちと謀ってシェバの首を切り落とし、それを城壁の外へ投げ落とした。ヨアブが角笛を吹き鳴らしたので兵士たちはみな引き上げて行った。

 その後、ダビデの治世で三年間の飢饉が続いた。ダビデは神に託宣を求めた。するとエホバは言われた。『サウルとその家の者に血の罪がある。彼がギブオン人を殺したからである。』。ギブオン人はイスラエルに属する人々ではなく、アモリ人の生き残りであったが、彼らはイスラル人がカナンの地に入って戦うのを見たとき、確かに彼らには生きている神エホバがおられ、神が戦っておられるということを認めて、イスラエル人と平和の誓約を交わしていたのであった。ところがサウルはイスラエルとユダの人々への熱情のあまりに、キブオン人を滅ぼそうとしたのである。
 それでダビデは、キブオン人を招いて言った。
「わたしは、あなたたちに何をすればよいのだろうか。どのようにして償えばエホバの嗣業の地を祝福してもらえるだろうか」
 ギブオン人は答えて言った。
「問題なのは金や銀ではありません。また、イスラエルの人々をだれかれとなく殺すというのでもありません」
「言ってくれれば何でもしよう」
「わたしたちを滅ぼしつくし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも住むことができないように謀った男、サウルの子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちはエホバがお選びになった者サウルの町ギブアで、神の御前で彼らをさらし者にします」
 王は言った。
「彼らを引き渡そう」
 命には命をもって償うのがモーセの律法であった。サウルとその家の者の上には、ギブオン人に対して血の罪があったのである。しかしダビデは、ヨナタンの息子メフィポシェトだけは渡したくなかった。ダビデヨナタンの間には神を立てた誓約があったからである。そこでダビデは、サウルとアヤの娘でサウルの側女リツパとの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィポシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、ギブオン人の手に渡した。(サムエル記下 二一:七、八)サウルの娘ミカルは最初ダビデの妻であったが、後にダビデがサウルから追われる身になっていた間に連れ戻されて、ガリム出身のライシュの子パルティと結婚させられており、いずれの場合にも彼女が子どもを産んだ記録はないので、このミカルの五人の子どもたちとは、早死にした姉のメラブの子どもをミカルが育てたのではないかと推測されている。いずれにしても、こうしてサウルの家の者七人がギブオン人の手に渡されたのであった。ギブオンの人々は彼ら七人を一度に処刑し、山の上でエホバの前に曝した。それは大麦の収穫が始まる雨の季節が来る前だった。
 悲しみにくれたアヤの娘リツパは、放心したようになって、それら処刑された七人の者の上に粗布を広げた。昼は空の鳥がついばむのを、夜は獣が食いちぎるのを防ぐためであった。その切ない母親の姿を見てもキブオンの人々は同情しなかった。しかしそのことを伝え聞いたダビデは、ギレアドのヤベシュの人たちのところへ行って、その曝された七人の遺骨を引き取った。そして同時に、サウルとヨナタンの遺骨も引き取った。この二人の遺骨は、ペリシテ人との戦いの時ベト・シャンの広場に曝されていたものを、ギレアドのヤベシュの人々が奪い取って来たものだった。それはつまり、彼らがサウルとヨナタンの遺骨を、危険を冒してまで取り戻して来たのは、同情のためではなく、憎悪のためであった。しかしダビデの場合は、まったくの同情、憐れみのためだった。それで彼はサウルの家の者たちすべての遺骨を取り上げて、ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。それはサウル自身の願いであり、ダビデに頼んでいたことだった。友人ヨナタンに対しては彼の死後も忠実を貫いた。こうして流血の罪を犯したサウル家の者たちはようやく父キシュのもとに集められたのである。神がダビデを愛されたのもこのような資質があったからであろうか。
 こうしてサウルが犯した血の罪は贖われ、ダビデの治世に続いた三年間の飢饉は終わったのである。

 

第七章    ダビデの最期


  一 王位継承の争い


 ダビデは、波乱に満ちた多くの日を重ねて年老いた。夜、何枚もの衣を重ねてもなかなか温まらなかった。そこで家臣たちは王に進言した。
「王様、あなたのために若い処女を捜してまいりましょう。あなたのお世話をし、夜はあなたの懐に抱かれて休むためです。そうすれば温かくなります」
 彼らは美しい娘を求めてイスラエル中を探し回り、シュネム人アビシャグという非常に美しい娘を見つけ、王の前に連れてきた。そしてアビシャグは王に仕えるようになった。しかし王は彼女と床を一つにすることはなかった。
 その頃、ダビデの妻ハギトがヘブロンで産んだダビデの四番目の息子アドニヤが自らを高めて言った。
「わたしが王として支配しよう」
 そして自分のために、戦車と馬と五十人の護衛兵をそろえた。しかしダビデはそのことについて、「どうしてそのようなことをしているのか」とは言わなかった。それでついにアドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレトの石のそばで羊や牛をほふって捧げ、王子である自分の兄弟や王の家臣たちを招いて宴をもうけた。そこには、ダビデの信頼を失っていた軍の司令官ヨアブ、祭司アビアタルなどがいた。ヨアブは、個人的な恨みから前司令官であったアマサを殺害した後になって、再び軍の司令官として返り咲いていたようである。また祭司アビアタルは長年ダビデに忠実に仕えていたのに、なぜかアドニヤに組みするようになっていた。しかし祭司ツァドク、預言者ナタン、またダビデの強力な勇士ベナヤ、そしてアドニヤの兄弟であるソロモンなど招かれていなかった。それはまるでアブサロムの陰謀の二の舞のようであった。しかもアドニヤも、アブサロムのように容姿の美しい人であった。
 これらアドニヤの振る舞いが預言者ナタンの耳に入ったとき、ナタンは非常な危機感をもった。それで直ちにソロモンの母バト・シェバのところへ行って語った。
「お聞きになったでしょうか。我が主なる王がご存知ないうちに、ハギトの子アドニヤが王になったということを。このことは、あなたと、あなたの御子息ソロモンの命が関わることです。今すぐに王のもとへ行って、こう言いなさい。『我が主なる王よ、このはした女にお誓いになって「お前の子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につく」と言ってくださいました。でも、なぜ今アドニヤが王となったのでしょうか』と。そうしてあなたが王とお話になっているうちにわたしも続いて入って行きます。そして必ずあなたの言葉を確認しましょう」
 バト・シェバは、預言者ナタンの助言に従って、王の奥の部屋を訪ねて行った。バト・シェバが会わないうちに王は非常に年老いていた。その側でシュネム人アビシャグがかいがいしく仕えていた。バト・シェバは王の前に膝まずいて礼をした。すると王は言った。
「何か頼みたいことがあるのか」
 彼女は言った。
「わが主なる王よ、あなたはあなたの神エホバの御名にかけてこのはした女にお誓いくださいました。『お前の子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につく』と。ところが、御覧ください、今、アドニヤが王となりました。わが主なる王よ、あなたはそのことをご存知ありません。アドニヤは羊や牛、肥えた家畜を数多く捧げ、すべての王子、祭司アビアタル、軍の司令官ヨアブを招いて盛大にお祝いをしています。しかしあなたの僕ソロモンは招きませんでした。わが主なる王よ、今、全イスラエルの目は、だれがわが主なる王の跡を継いで王となるのかをお示しくださることを待っています。もしこのままでわが主なる王がその父祖と共に眠りにつかれることがあるなら、わたしとわが子ソロモンは反逆者になってしまいます」
 そのように、バト・シェバが話しているとき、預言者ナタンがやって来た。そこで召使いによって、「預言者ナタンが参りました」と王に告げられた。バト・シェバは王の前から下がって行った。
 預言者ナタンは王の前に進み出て、地にひれ伏して言った。
「わが主なる王よ、あなたは『アドニヤがわたしの跡を継いで王となり、王座につく』と言われたのでしょうか。彼は今日、雄牛や羊、肥えた家畜の多くを屠り、王の御子息や軍の司令官、祭司アドニヤたちを招いて食べたり、飲んだりして、「アドニヤ王が生き永らえますように!」と言っています。しかしあなたの僕であるわたし、祭司ツァドク、あなたの御子息ソロモンは招かれませんでした。これはわが主なる王よ、あなたのご意向でしょうか。わが主なる王は、だれが御自分の跡を継いで王となるのかを、僕たちにお知らせになっていません」
 ダビデ王は、バト・シェバを呼んで来るようにと命じた。彼女が王の前に進み出て、その前に立つと王は誓って言った。
「わたしをあらゆる苦しみから救ってくださったエホバは生きておられる。あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしに代わって王座につくと、イスラエルの神エホバにかけてお前に立てた誓いを、わたしは今日実行する」
 バト・シェバは、顔を地に伏せて礼をした。
「わが主なるダビデ王が、永久に生き永らえますように!」
 直ちにダビデ王は命じた。
「祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨアダの子ベナヤ(ダビデの護衛官の長)を呼べ」
 ダビデ自身、危機感をもって立ち上がったのである。二度と二人の兄弟が争い、殺し合うようなことをしてはならない。どちらにしても、我が子の一人を失うだけである。そんな愚かなことはもう絶対にしてはならないことだった。
呼ばれた三人は王の前に出た。
「よいか。お前たちは、わたしの家臣を率いて、わが子ソロモンをわたしのラバに乗せてギホンに下らせよ。祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこでソロモンに油注いで、ソロモンをイスラエルの王とせよ。次いで角笛を吹いて『ソロモン王万歳!』と叫び、皆彼に従って上れ。それからソロモンはわたしの王座につく。彼がわたしに代わって王となり、わたしはソロモンがイスラエルとユダの王となるように命じる」
 みんな喜んだ。ヨヤダの子ベナヤは王に言った。
「アーメン、わが主なる王の神エホバもそのように言われますように。エホバが王なるわが主と共におられましたように、ソロモンと共にいてくださいますように。その王座をわが主ダビデの王座よりもさらに大いなるものとしてくださいますように」
 彼らはダビデが命じたように、ソロモンをダビデのラバに乗せて共にギホンへ下って行った。ギホンでは、その報せを聞いた多くの民が、ソロモンの到着を待ち構えていた。そこで祭司ツァドクは、天幕から油の入った角を持って出て来て、ソロモンに油を注いだ。次いで角笛が吹き鳴らされた。
「ソロモン王、万歳! 王が生き永らえますように!」
民はみなソロモンの後に従って行き、笛を吹いて大いに喜び祝ったので、その声が地に轟き渡った。

アドニヤと、彼と共にいた客たちはその音を聞いた。司令官として角笛に敏感なヨアブは、その音に耳を澄ますと、
「何の騒ぎだ? 町で何かあったのだな」
 と言った。そこへ祭司アビアタルの子ヨナタンが駆け込んで来た。アドニヤが言った。
「よい知らせだな。お前は勇敢な男だ」
 ところがヨナタンはアドニヤに答えた。
「いいえ、我らが主ダビデ王は、ソロモンを王とされました。王は、ソロモンと共に祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤ、クレタ人とペレティ人とを遣わされ、彼らはソロモンを王のラバに乗せ、祭司ツァドクと預言者ナタンは、ギホンでソロモンに油を注いで王としました。それで民はすべて喜び祝いながら上ってきたのです。あなた方に聞こえたのはその声です。町は喜びで大騒ぎをしています。ソロモンはすでに国王の座につかれました。王の家臣たちは次々に来て、わが主なる王にお祝いの言葉を述べています。『あなたの神エホバが、ソロモンの名をあなたの名よりも優れたものに、ソロモンの王座をあなたの王座よりも大いなるものにしてくださいますように。』と。王は寝床の上でひれ伏してこう言われました。『イスラエルの神エホバが讃えられますように。エホバは今日、わたしの王座につく者を与えてくださり、わたしはそれをこの目で見ている。』と」
 そこにいた者はみな震え上がり、それぞれが慌てて立ち上がって逃げて行った。アドニヤ自身もソロモンを恐れ、立ち上がって祭壇の角をつかんだ。そして彼はこう言った。
「この僕を剣にかけて殺すことはないと今日、ソロモン王に誓ってもらいます」
その知らせがソロモン王に伝えられると、彼は人を遣わしてアドニヤを祭壇から下ろさせた。そしてソロモンの前にひれ伏したアドニヤに言った。
「あなたが潔く振舞うなら、髪の毛一本地に落ちることはない。しかし悪が見つかるなら死なねばならない」
もしも預言者ナタンがすばやく行動していなければ、この立場は逆転していたのである。王になるどころか命も失っていたかも知れない。後にソロモン王自身がこう記している。
「主御自身が建ててくだるのでなければ
 家を建てる人の労苦はむなしい。
 主御自身が守ってくださるのでなければ
 町を守る人が目覚めていてもむなしい。」(詩編一二七:一)
 ソロモンが王になることはエホバの御意志であった。神御自身が立ててくださらなければ、どれほど王になろうとしてもなれることではなかった。イスラエルの真の王は神エホバであったからである。ソロモンはそのことを、身を以って経験したのである。


   二 回顧


 ダビデは床のなかで静かに目を閉じた。すると、さまざまなことが瞼の裏に映るのだった。侍女のアビシャグが見ていると、ダビデは時折、静かに微笑んでいた。
「王様、何かよい夢でも御覧になりましたか」
「いいや、アビシャグ、夢ではない。あれは現実に起きたことだった。わたしはほんとうにあのゴリアテを倒したのだよ、あの巨人を……」
「ほんとうに。王様、そのお話はよく伺っております。少年時代の王様の勇気あるお姿がわたしの目にも浮かんでまいります」
アビシャグは、その光景を見ているかのように、ダビデと一緒に視線を宙に泳がせた。「そうか、お前にも見えるか」
ダビデはゆっくりと話し始めた。
ゴリアテはね、二メートル九十センチの巨人だった。わたしはほんの少年で、そうだなあ、その半分くらいだったかも知れない。わたしは河原から小石を数個拾ってきて、それを羊飼いが持っているあの袋に入れて走った。ゴリアテに向かって走って行ったのだ」
「怖くはなかったのですか」
「怖くはなかった。わたしの武器は実のところ小石ではなかったのだ」
「なにだったのですか」
「そう、神が共にいてくださることだった」
ダビデは、その時のことを思い出すたびに武者震いするのだった。石投げ器で飛ばした小石がゴリアテの額に命中したその瞬間、ペリシテ人イスラエル人の両陣営から大きなざわめきが上がった。やがてそのざわめきは一瞬、鎮まった。両陣営の兵士たちの目が、倒れたまま動かないゴリアテの巨体に釘付けになっていたからである。ダビデは夢中でゴリアテのそばに走り寄って行った。彼は微動だにしていなかった。そこで彼の大きな剣を抜いて、それで止めを刺した。次の瞬間、イスラエルとペリシテの両陣営からどよめきの歓声が上がったのだった。ダビデは目を閉じて言った。
「アビシャグ、あれはわたしが戦士としてデビューした日だった」
「はい、王様」
 年老いたダビデと、若いアビシャグの住む世界は全く異なり、時代の差も大きかったが、なぜか共に安らぎの時を分かち合っていたのである。しかし、ダビデは独りで思いにふけることも多かった。もしわたしが神によって油注がれていなかったら……。あのまま、羊飼いでいたら……どうなっていたことだろう。自然をこよなく愛し、好きな詩を書いて、竪琴に合わせて自由に歌いながら、草原から草原を渡り歩いていたことであろう。羊飼いとしての平凡な日々を送っていたはずだ。
「もしかするとそのほうがずっと幸せだったかも知れない」
「はい?」
「いや、いいのだ」
ダビデはアビシャグがいても独りごとを言うことがあった。
 しかし、ある日突然、あの預言者サムエルがやって来て、エッサイの八人の息子たちの中から、末っ子のわたしに、「あなたです!」といったのだ。何のことだか分からなかった。しかしサムエルは、わたしに油を注いでから立ち去って行った。あの瞬間から、わたしの人生は変わった。この身に聖霊が激しく降るようになり、わたしには力がみなぎり、羊を襲ってくるライオンに素手で立ち向かえるようになったのだ。そしてわたしは、羊を導く者から神の民を導く者へと変わった。どうして取るに足りないエッサイの家の息子であるわたしが……。わたしが何者だというので、神はこれほどまでの賜物を与えてくだったのか。わたしには未だにそのことが分からない。
 しかし、王の道は決して生易しいものではなかった。十年近くもサウルに命を狙われて荒野から荒野へと逃れていなければならなかった。雨や嵐が吹きすさぶ季節もあった。じめじめした寒い洞穴で膝を抱えて眠らなければならない夜もあった。また、朝目覚めてみると、衣の上に露が降りていたこともあった。寝ても覚めても、サウルが投げかけてくる死の網が張り巡らされており、一夜としてゆっくり休んだことはなかった。時には、三千人の軍隊に追われて、進退窮まったこともあった。
「それでも……神はその死の淵からわたしを救い出してくださったのだ」
「王様、何かおっしゃいましたか?」
 アビシャグは優しくダビデのほうへ振り向いた。
「エホバは生きておられる。神により頼む者を決して見捨てられない。アビシャグ、わたしはこの身で何度もそれを経験したのだ」
「はい、王様」
アビシャグは、ダビデの手に優しく触れた。
思えば、あのサウルに追跡されていた苦難の時があったからこそ、わたしは王として、民の心を掴む術を学んだ。羊飼いであったからこそ民を統率することができた。そして、そのどちらも経験していたから、神に対する確信があった。しかしわたしには、悔やんでも悔やみきれない失敗が数多くある。神の力によって立っていることを忘れたこともあった。あの人口調査を行なった時もそうだった。人口調査、つまりわたしは、神の力を信ずることよりも、イスラエルの兵士の数に信頼をおいたのだった。その調査は大規模なもので、ベエル・シェバからダンに至るイスラエル全土に及んだ。あのときヨアブはわたしに忠告をしてくれた。
「わが主な王よ、どうしてあなたはそのようなことを望まれるのですか。どうしてイスラエルに罪を行なわせるのですか。必要ならば、エホバがその民を百倍にもしてくださいますように」
ヨアブの言ったとおりだった。わたしは神に対する信頼という意味で大きな罪を犯した。わたしには神が共にいてくださり、わたしの武器は兵士の数ではなく、神の力だったのに……。それなのにわたしはサタンに駆り立てられて、イスラエルに戦士を数えてしまった。そして嫌がるヨアブに命じて、人口調査を強行させた。しかしヨアブは、王であるわたしに強く反発して、祭司の部族であるレビ人、またサウルに属していたベニヤミン族からは数えなかった。それでもイスラエルで戦える男子は一一〇万人、ユダには四七万人がいた。ああ、ほんとうに強力な軍隊だった。それなのに、わたしの心はその直後に激しくわたしを打ち始めたのである。わたしは大変愚かなことをしてしまった。そしてその神罰が降ったのだ。
神は預言者ガドを通してわたしにこう告げられた。
「わたしはあなたに三つのことを示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する」(歴代誌上 二一:一〇)
生きておられる神は、すべてのことを見ておられた。そしてわたしに三つの事柄の中から一つのことを選ぶようにと言われた。その三つの事とは、三年間の飢饉か、三ヶ月の間、敵に追われて敗北することか、三日間の疫病に撃たれることかのいずれかであった。どの選択も受け入れられるものではなかった。そこでわたしは苦悶のうちに神に申し上げた。
「その選択はどれも出来難いことです。ああ、どうか神よ、わたし自身をあなたの御手に陥らせてください。人間の手にはかかりたくありません」
しかし神は神罰を控えられず、御使いを送ってエルサレムを疫病で撃たれた。その結果、イスラエルの民七万人が死んでしまった。あのときほど自分の犯した罪に責められたことはなかった。ユダの長老たちも一緒に見たのであるが、実際に御使いはエブス人オルナンの麦打ち場で、天と地の間に立っており、剣を抜いてその手をエルサレムに向けていた。わたしたちは恐ろしくて、顔を上げることもできず、地に伏すばかりであった。それでもわたしは必死に神に祈った。
「エホバよ、民を数えることを命じたのはわたしです。罪を犯し、悪を行なったのはこのわたし自身です。この羊の群れには何の罪もありません。わたしの神エホバよ、どうか御手をわたしとわたしの父の家に下してください。あなたの民を災難に遭わせないでください」
神はその祈りに答えて、御使いに言われた。
「もう充分だ。その手を下ろせ」
それで、御使いはエルサレムに向けていた剣を納めた。それから預言者ガドを通してわたしに言われた。
ダビデに言いなさい。『ダビデはエブス人オルナンの麦打ち場に上って行き、エホバのための祭壇をそこに築かねばならない』」
ガドがその言葉をわたしに伝えたので、わたしはただちにオルナンの麦打ち場へ行った。オルナンは麦打ちをしていた。彼はわたしを見ると地にひれ伏した。わたしはオルナンに言った。
「オルナン、この麦打ち場をわたしに譲ってもらえないだろうか。わたしは疫病を取り除いてもらったので、ここにエホバのための祭壇を築かねばならないのだ。代価は充分に支払う」 
 オルナンは顔を伏せたまま言った。
「土地も、捧げ物もすべて差し上げます」
「いや、わたしは無償で得たもので捧げ物をすることはできない。六百シケルを渡そう」
そしてそこにエホバのための祭壇を築き、神に捧げ物をして祈った。それに対して神は祭壇の上に天から火を送って答えてくださった。それでようやく、わたしが行なった人口調査の罪は止められたのである。
あの時だ、わたしが心のなかで決意したのは……。<エホバの神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルの民のためにささげる祭壇はここにこそ築くべきだ>
あのころ、犠牲の捧げ物をささげる祭壇はギブオンの高台にあったのである。しかもその幕屋はモーセが荒れ野で造ったものだった。あの時以来、わたしの心に神殿建設の思いが益々強くなっていったのだ。
「あの時のことを思うと、今もわたしの心は痛み、悔やんでも悔やみきれない……」
「なんでございますか?」
 侍女のアビシャグが頭を傾げた。
「ああ、いいのだ、わたしの独り言だ」
「はい、王様」
ダビデは思った。王が犯す罪は個人だけにとどまらない。民全体に及ぶものなのだ。わたしはそのことを数知れず体験してきた。結局のところ、アムノンとタマル、そしてアブサロムの悲劇もわたしが招いたことなのだ。わたしがバト・シェバと犯した罪のために、あれらの災いはダビデの家にもたらされた。あのように忠節な者であったウリヤを殺したのもわたしなのだ。何ということをしたのか……。ダビデは込上げてくる激情を抑えることができなかった。唇を噛み締めて声を殺した。それなのに……ああ……エホバはわたしをお赦しくださった。そしてバテシバの息子ソロモンを王にまでしてくださった。わたしはエホバにどのように感謝を表わせばよいのだろう。ダビデは再び目を閉じて深い吐息をした。そしてアビシャグのほうへ手を伸ばした。
「アビシャグ、わたしは、王としても、父親としても、はかり知れない喜びと悲しみを刈り取ってきた。そして、神がどれほど慈しみのある方であるか、どれほど公正の神であるかも知ってきた……」
「はい、王様」
「ただ、心残りといえば、心から愛した友ヨナタンの死である。彼は父サウル王と共に死んでしまった」
「はい、王様、ヨナタンさまのことはよく聞いております」
「そうか……。ヨナタンは、神の御前で歓びを分かち合える唯一の友だった。彼ほどにわたしの心の内を理解してくれた人はいなかった。ああ、ヨナタン、どうしてあなたはわたしを残して死んでしまったのだ……」
ダビデは、若者のように胸が熱くなった。今彼が側にいてくれたらと思うと胸が苦しくなってくるのだった。そうだ、彼がいてくれたら、ユダ王国の行く末を忌憚なく話し合えただろうに。わたしにはモーセの預言が気にかかっている。ユダはいつか神を棄てて滅ぼされ、カナンの地から吐き出されることになっている。いったいどこへ行くのだろうか。しかし神が預言されたことは必ず実現する。これまでそうならなかった事は一つもないのだから。ああ、わたしの子孫たちよ、どうかいつまでも神と共に歩んでくれ……。ダビデは心からそう願わずにはいられなかった。
ダビデは空に手を伸ばした。ヨナタンの手を握りたかった。まるで火花が散ったような、強烈な出会いと別れだった。ダビデは遠くを見つめるように目を細め、思い出の一枚一枚ページをめくりながら、ひっそりと微笑んだ。

以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者、ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌。

 主の霊はわたしのうちに語り
 主の言葉はわたしの舌の上にある。
 イスラエルの神は語り
 イスラエルの岩はわたしに告げられる。

 神に従って人を治める者
 神を畏れて治める者は
 太陽の輝き出る朝の光
 雲もない朝の光
 雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
 神と共にあってわたしの家は確かに立つ。
 神は永遠の契約をわたしに賜る
 すべてに整い、守られるべき契約を。
 わたしの救い、わたしの喜びを
 すべて神は芽生えさせてくださる。

 悪人は茨のようにすべて刈り取られる。
 手に取ろうとするな
 触れる者は槍の鉄と木を満身に受ける。
 火がその場で焼き尽くすだろう。」(サムエル記下 二三:一―七)
 
 神を畏れ、神に従って治めて来た王ダビデ。神と共にあってこそその家は立つと契約された王朝。神は預言者ナタンに幻を与えてこう伝えられた。
「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と。(サムエル記下 七:一六)
しかし、永久に契約された王国がどういうものか、ダビデもその全貌を理解していたわけではなかった。それでも神は、羊飼いのエッサイの息子ダビデを選んでその契約をされたのである。ダビデは自分の足跡を振り返りながら、ただ不思議な気持ちに包まれていた。瞼に映っているのは、金色に輝く王冠を被ったもう一人の人間であった。あれがダビデか? あれが本当にわたしなのか? そんなはずはない……。ダビデは首を横に振りながら空に目を凝らした。
「アビシャグ」
「はい、王様」
「蜃気楼だ、すべて蜃気楼だ」
「いいえ、王様。現実です。王様はほんとうにゴリアテを倒された勇敢な少年だったではありませんか。エホバはそのあなたを選んで油注がれ、イスラエルの王となさいました」
 アビシャグは、白いハンカチで王の額の汗をそっと押さえた。
「そうだなあ。やはりあれはほんとうのことだった……」
「王様、お水を一杯お持ち致しましょう」
ダビデは、アビシャグがささげ持って来る黄金の器の向こうに、ひとり静かに星空を見上げている少年の姿を見ていた。


   三 遺言


ダビデは自分の死期が近づいていることを悟った。そこで息子ソロモン王を呼んで言った。
「わたしの子よ、わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた。ところが主の言葉がわたしに臨んで、こう告げた。『あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を流したからには、あなたがわたしのために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子どもが生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。この子がわたしのために神殿を築く。この子はわたしの子となり、わたしはその父となる。わたしはその王座を堅く据え、とこしえにイスラエルを支配させる。』わたしの子よ、今こそ主が共にいてくださり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築が成し遂げることができるように、賢明に判断し識別する力を主があなたに与え、イスラエルの統治を託してくださり、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行なうよう心掛けるなら、そのとき成し遂げることができる。勇気をもて、雄々しくあれ。恐れてはならない。おじけてはならない。
 見よ、わたしは労苦して主の神殿のために金十万キカル、銀百万キカルを準備した。青銅も鉄もおびただしくて量りきれない。材木も石材も準備した。更に増し加えるがよい。あなたのもとには多くの職人、砕石労働者、石工、大工、あらゆる分野の達人がおり、金、銀、青銅、鉄も数え切れない。立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。」(歴代誌上二二:八—一六)
 ダビデが神殿建設のために残した金銀は、数え切れないほど多かった。それに加えてダビデは、高官たちがソロモンを支援してその大事業を成し遂げるように細々した取り決めをつくって命じた。
「あなたたちの神、主は、あなたたちと共にいて、周囲の者たちからあなたたちを守り、安らぎを与えられたではないか。……今こそ、心と魂を傾けて、あなたたちの神、主を求め、神なる主の聖所の建築に立ち上がれ。主の御名のために建てられる神殿に、主の箱と聖なる祭具を運び入れよ。」(歴代誌上二二: 一八―一九)
 ここにはなぜ神殿を造らねばならないのか、その意味を正しく銘記するようにというダビデの強いメッセージが溢れている。彼は王として、神に敵対する周辺諸国からイスラエルの民を守るために奮戦した。そのために多くの血を流したのであって、いたずらにした戦いではなかった。大きな意味では神の戦いをしてきたのだった。それでもそれゆえに神殿を造るのは自分ではないことを知らされたとき、いくらか気落ちしたにちがいない。けれど不満を述べるのではなく、そのために自分ができることのすべてを行なった。神殿建築の資金、その材料や職人たちを集める事などのすべての準備を整えたのである。後はソロモンと高官たちが立ち上がるのを待つだけだった。
 さらにダビデは、神殿が完成した後のことまで心に留めた。神殿で奉仕する人々を組織したのである。アロンの子孫から成る祭司のレビ人と、高官たちを集めて数えたところ、三〇歳以上の男子のレビ人は八万三千人であった。その中からエホバの神殿における務めを指揮する人二万四千人を取り分け、六千人を役人と裁判官に、四千人は神を賛美するためにダビデが作った歌を奏でる楽師として取り分けた。またレビ人を家系ごとに分けて、聖所、祭壇、捧げ物等々、それぞれの仕事に携わるようにした。そのようにして、神殿に関するすべてのことを完全に組織したのである。その中には賛美の歌を指揮する者、楽器ごとに演奏する者、詠唱を専門にする人などがいた。音楽家でもあったダビデの面目が躍如としており、多才なダビデならの組織であった。

 そして、ダビデはソロモンを呼んでこう言った。
「わたしは今、すべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しく生きよ。あなたの神エホバの務めを守ってその道を歩みなさい。モーセの律法に記されているとおり、エホバの掟と戒めと法を必ず守りなさい。そうすれば、あなたは何を行ない、どこへ向かっても、必ずや良い成果を上げることができる。また、神エホバがわたしに告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、真をもって心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が絶たれることはない。』と言われた約束を守ってくださるであろう」(列王記上 二:一―四参照)
 真実、ダビデの王朝は神エホバから授かったものだったので、神の律法と掟を守ることは王朝存続の上で絶対不可欠なことだった。
 また、ダビデは、ソロモンに重大な仕事を遺した。
「あなたは、ツェルヤの子ヨアブがわたしに背いたことを知っている。彼がイスラエルの二人の将軍ネルの子アブネルと、イエテルの子アマサにしたことである。ヨアブは彼らを殺し、平和なときに戦いの血を流し、腰の帯と足の靴に戦いの血をつけた。それゆえ、あなたは知恵に従って行動し、彼が白髪をたくわえて安らかに陰府に下ることを許してはならない。ただし、ギレアド人バルジライの息子たちには慈しみ深くし、あなたの食卓に列なるものとせよ。彼らはわたしがあなたの兄アブサロムを避けて逃げたとき、助けてくれたからである。また、あなたのもとにはバフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼はわたしがマハナイムに行ったとき、激しくわたしを呪った。だが、彼はわたしを迎えにヨルダン川まで下って来てくれた。わたしは彼に、『あなたを剣で殺すことはない』と主にかけて誓った。しかし今、あなたは彼の罪を不問にしてはならない。あなたは知恵ある者であり、彼に何をすべきかが分かっているからである。あの白髪を血に染めて陰府に送りこまなければならない。」(列王記上 二:五―九)
 ダビデはこれらのことをソロモンに遺言した。だれを、どのように、何時、裁くかを王として知悉していたのである。自分の代にそれが許されたとしても、罪を不問にすることはなかった。それはまた、彼自身が神エホバから受けてきたことでもあった。そして、ダビデが王として神と共に歩いた期間は、ヘブロンで七年、エルサレムで三十三年であった。彼は波乱万丈の七〇年を生きて先祖と共に集められた。彼の胤として御子イエス・キリストが呼んでくださる日まで。イエス・キリストはこう宣言されているからである。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。……父は子自分の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行なう権限を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行なった者は復活して命を受けるために、悪を行なった者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネ五:二五―二九)この言葉が語られたのは、ダビデの死後、一千年以上も後のことであった。
 その後、ソロモンはダビデの王座についた。そして彼は知恵のある王として知られるようになるが、それは神から与えられたものだった。ソロモンは王位に就いたとき、ギブオンへ行って、神エホバの祭壇に一千頭もの焼き尽くす捧げ物をささげた。その夜、エホバはソロモンの夢のなかに現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンはこう答えた。
「あなたの僕、わたしの父ダビデは、忠実に憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。また、あなたはその慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座に着く子を父に与えられました。『わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多い民を裁くことがだれにできるでしょうか。』」(列王記上 三:六―九)
 この祈りに対して、神エホバはこう答えられた。
「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることもなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに及ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが、父ダビデが歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(列王記三:一一:一四)
 ソロモンは目を覚まして、それが夢だと知った。神は夢によって御言葉を告げられたのであった。そしてその言葉はまさしくそのとおりになった。すべてにおいて磐石となったソロモンの治世は、ダビデの戦いの日々とは全く異なるものだった。彼の治世中に戦争は一度もなく、諸国の王たちは競うように貢物を携えてやってきた。ソロモンの富と栄光、繁栄は彼の知恵と共に遠い国々まで伝わっていったのである。それで、おそらくアラビア南西部に位置していたと思われる富裕な王国(現在のイエメン共和国の辺り)、シェバの女王も、ソロモンの知恵を聞くために、莫大な金・銀・宝石を携えてやって来たほどであった。
「ソロモン」という言葉には平和という意味があり、彼の治世には神がすべてを保護されたので、彼の時代は将来この地上にもたらされると約束されている「神の王国」の雛形のようであった。しかしソロモン王には、父ダビデの遺言を果たす仕事が残されていた。
まず王位簒奪に失敗したハギトの子アドニヤであるが、彼は、一度はソロモンから許されたものの、ソロモンの母バト・シェバを通して、父ダビデの侍女であったシュネム人のアビシャグを妻にいただきたいと願い出たことで問題は再燃した。一般に亡くなった王の側女を受け継ぐことができるのは、次の王になる者に限られていたのである。それでアドニヤの真意を疑ったソロモンは怒って、母バト・シェバに痛烈な皮肉を込めてこう答えている。
「どうしてアドニヤのためにシュネムの女アビシャグを願うのですか。彼はわたしの兄なのですから、彼のために王位も願ってはいかがですか。祭司アビアタルのためにも、ツァルヤの子ヨアブのためにもそうなさってはいかがですか」
 ダビデへの反逆に加わった二人の名前も上げた。そしてその日にヨヤダの子ベナヤを送ってアドニヤを討たせたので彼は死んだ。アドニヤもアブサロムと同じように、邪悪な野望を抱いたばかりに死をもって償わなければならなかった。のである。神がつくった王朝であるから、その神の義に背くなら、それは悲惨な結果になることは必定であった。そしてソロモン王は祭司アビアタルに言った。
「アナトテの自分の土地に帰るがよい。お前は死に価する者であるが、今日、わたしはお前を殺すことはしない。お前はわたしの父ダビデの前で神の箱を担いだこともあり、父と苦労を共にしてくれたからだ」
 ソロモンは大祭司アビアタルを永久に祭司から外した。それはどうしようもない二人の息子を矯正しなかったエリの家に対する応報として、その子孫は大祭司の地位から取り除かれるという、エホバの預言の成就となった。(サムエル上 三:一二、一三)その後ソロモンは、アビアタルの代わりにツァドクを大祭司とした。
 この知らせを聞いたあの勇猛果敢なヨアブも、ソロモン王を恐れてエホバの天幕へ逃げ込み、祭壇の角をつかんで震えていた。かつては、ユダの軍の司令官として権力の絶頂にあり、ダビデに何度も忠言もしたヨアブであったが、その最後は非常に悲惨なものになった。ソロモン王は、ヨアブが祭壇の側に逃げていることを知らされると、ヨヤダの子ベナヤを遣わして、彼を討てと命じた。ベナヤはヨアブに言った。
「王がそこから出て来いと命じておられる」
「いやだ、わたしは出て行かない。ここで死ぬのだ」
 と言った。ベナヤがそのことを王に告げると、王は言った。
「彼の言うとおりにせよ。彼を殺して地に葬れ。ヨアブが理由もなく流した血をわたしとわたしの父の家から拭い去れ。エホバが彼の流した血の報いを彼自身の頭にもたらしてくださるように。彼はわたしの父ダビデの知らないうちに、善良な二人の人物、イスラエル軍の司令官ネルの子アブネルと、ユダの軍の司令官イエテルの子アマサを剣にかけて殺したのだ。この血の報いはヨアブとその子孫の頭にとこしえにもたらされるように。ダビデの子孫、その家、その王座にはエホバによってとこしえに平和がつづくように」
 そこで、ヨヤダの子ベナヤは、祭壇の陰に逃げ込んでいたヨアブを討ち殺した。こうしてダビデと共に数々の歴戦を飾ってきた力ある勇士、司令官でもあったヨアブは、ダビデの子ソロモンによってあっけなく殺されたのである。王が変わるなら、側近である司令官も祭司も代わる。そしてヨアブの遺体は、荒れ野にある自分の家に葬られた。ソロモンは、彼の代わりにヨヤダの子ベナヤを軍の司令官に立てた。
 この世のことはまるで幻である。いったいヨアブは何のために命をかけた戦争をしてきたのか。国のためであったのか、ダビデのためであったのか。それとも自分のためであったのか。彼もまたダビデの甥として生まれてくることがなかったら、野望と権力に執着することなく、平凡な幸せを得て死ぬことができたかも知れない。人間の我欲とは恐ろしいものである。欲に突き動かされるように生きても、体という器が壊れるなら、欲望も野望も、権力も地位も何の意味もないように終わる。たとえそれが王権であっても、ただ風のように吹き払われて行くだけである。「欲望ははらんだときに罪を生み、そしてその罪が遂げられたときに死を生み出す」(ヤコブ一:一五)という言葉はまさしく真理である。
 そしてもう一人悲しい人がいた。ベニヤミン人ゲラの子シムイである。彼はダビデがアブサロムの反逆から逃れて行くとき、ダビデを呪い、土を投げたりした男であったが、ソロモンは彼に命じて言った。
「お前はエルサレムに家を建てて住むがよい。そこからどこにも出て行ってはならない。もし出て行って、ギドロンの川を渡るなら、死なねばならないと心得よ」
 しかしシムイもその三年後に、逃げて行った二人の僕を追ってエルサレムを出て行ったので、王はヨヤダの子ベナヤに命じてシムイを殺させた。僕二人を惜しんだばかりに命を棄てることになったのである。
 こうして、ソロモンは父ダビデの遺言をすべて果たした。また、ダビデがいちばん心残りにしていたエホバの神殿は、七年半の歳月をかけてモリヤ山上に建てられた。その神殿が奉献されたのは、西暦前一〇二七年の第八のリブル(イスラエルの暦、太陽暦の十月から十一月)の月のことである。それはヤコブの子孫イスラエルの民が、エジプトを脱出してからおよそ五〇〇年後のことであった。そして彼らがいちばん大切にしていた神の契約の箱はようやく、幕屋から壮麗な神殿に移されたのである。
 ソロモンの治世は平和に栄え、それは四十年間に及んだ。しかしそのソロモンさえも、ダビデのように生涯を神と共に歩むことができなかった。彼はのちに神エホバの崇拝から離れてしまったのである。彼をそのようにさせたのは、異邦人も多く含まれていた七百人の妻と三百人の側女たちであった。彼女たちはソロモンを、シドン人の女神アシュトレテ、アンモン人の偶像モレク、またモアブのケモシュなど、エホバが嫌悪される偶像の神々に誘っていったからである。
その罪の報いは大きかった。神は忠節に歩んだダビデのために、その子ソロモンの時代には行われなかったことを、ソロモンの子レハベヤムの時代に行なわれた。イスラエル王国の分裂である。この王国はついに北王国(イスラエル王国)の十部族と、南王国(ユダヤ王国)の二部族(ユダとベニヤミン)とに引き裂かれた。北王国の王となったのは、ソロモンによって王国の強制奉仕全体を監督する地位に着いていたエフライム族のヤラベアムであった。彼は有能な人であり、預言者アヒヤを通して神エホバによって王とされた。そしてこの分裂した王国は、それぞれの道を歩んで行くが、イスラエル王国は神エホバと共に歩むことがなかったので、紀元前八世紀に滅び、ユダ王国は紀元前七世紀に、それぞれ神罰によって滅亡した。預言者たちが語り、ダビデが危惧していたことは、すべてその民に臨んだのである。
神は生きておられ、個人の場合であれ、国家レベルであれ、どんな場合でも公正な裁きを行なわれた。特にソロモンの知恵と富、国の平和と繁栄は、まさしく神によって与えられていたので、彼が神エホバを棄てたとき、神もソロモンの祝福を取り去られたのであった。

 

 終章 ダビデとメシア


   一 ダビデの役割

 
メシアから遡ることおよそ一一〇〇年前(西暦前一一世紀の初め)に、メシアに至る家系の先祖としてダビデが誕生した。その生涯は異邦人のどの王とも比べようもなく特異なものであった。そもそも彼が王になったのは、神から油注がれたからであり、異邦人のごとく、戦いに勝利して権力を勝ち取ったからではなかった。生来、音楽の才能に秀でていた彼は、手製の竪琴を弾きながら、草原から草原を渡り歩く一介の羊飼いの少年に過ぎなかった。しかし神は彼を選んで、彼の胤から地に住むすべての人間を救出するメシアを起こすことを意図された。したがって、ダビデの生涯は単なる出世物語ではない。彼の生涯には、天の事柄と地の事柄を結ぶ重要な役割があった。
そして地上のダビデに託されたのは、神の御名を負う義なる戦いであった。ダビデが王になったのは、古代イスラエルの民がエジプトを脱出してカナンの地に入ってからおよそ四三〇年余りが過ぎた頃(西暦前一一世紀の初め)であり、周辺諸国は神エホバに敵対する民ばかりだった。ゆえにダビデの戦いは神エホバの御名を背負っていたのである。その点についてモーセの記した言葉は興味深い。
「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、『わたしは正しいので主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心が真っ直ぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。また、こうして主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたは頑なな民である。あなたは荒れ野であなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジフプトを出た日からここに来るまで主に逆らい続けた」(申命記九:四―七)
 すなわち、イスラエル国民がカナンの地に入れたのも神の力によるものだった。彼らが諸国民に勝って正しい民であったからではない。むしろイスラエル国民は頑なで、神に何度も反逆した国民であった。しかし神は、彼らの先祖であり、神に忠実であったアブラハム、イサク、ヤコブに対して行なわれた誓いゆえに、反逆する国民を何度も赦されたのである。そして他方、カナン人に対しては、神は地を清めるために彼らを取り除かれたのであった。後代、カナンの地の遺跡が発掘されたとき、彼らが吐き気を催すほどの汚らわしい性習慣をもっていたことが明らかになり、神がカナン人をその地から追われたことには神の大義があり、そのためにイスラエル人を用いられたのであった。
 このように、ダビデの王としての戦いには、神の御名がかかっていた。彼は戦いに出て行くとき、必ず神に伺いを立てた。ダビデが殆どの戦いを凱旋できたのは神の保護があったからである。
それにしても神はなぜ、一気に周辺諸国民を滅ぼされなかったのだろうか、という疑問があるかも知れない。それに対してもモーセは答えている。「あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない。野の獣が増えてあなたを害することがないためである。」(申命記七:二二)神の戦いには、自然界のバランスにさえ配慮がなされていたのである。そうであれば、神がこの地上の悪の根源である悪魔サタンを「ハルマゲドン」(神の大いなる日の戦争)で一掃されるとき、そこには神の「義」と「公正」さがかかっているのは当然のことである。その点をヨハネは裏付けている。「地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が到来しました。」(ヨハネの黙示録一一:一八)
 
 
  二 預言者が立てられる
 

ダビデ家の王朝が、神の実在を知らしめるためであったと言える二つ目の理由は、その王朝には、諸国のどの民の間にもいなかった、神エホバの御意志を伝える預言者が立てられていたことである。そしてその預言が成就しなかったことは一度もない。(ヨシュア二三:一四)預言者エレミヤはこう書いている。「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを常に繰り返しお前たちに遣わした。それでもわたしに聴き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを堅くし、先祖よりも悪い者となった。」(エレミヤ七:二五、二六)ダビデの時代の預言者は、ナタン、ガド、ツァドクであった。彼らはみな神の代弁者であり、神の霊感によって語った「神の人」であった。ダビデに油注いだサムエルも預言者、「神の人」だった。彼ら預言者は、未だ起きていないことを告げ知らせ、神の御意志や目的を知らせるための手立てとなった。彼らが神の音信を受ける方法は多岐にわたっている。直接、御使いによって話される言語による伝達(出エジプト三:二―四 ルカ一:一一―一七)、幻、夢(イザヤ一:一)、恍惚状態(使徒一〇:一〇、一一、二二:一七―二一)、また、預言者の行動によって劇的に表現されることなどである。いずれにしても、預言者が立てられたのは、未だ起きていないことを知らせることによって、神が実在することを知らしめるためであった。
「…彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちのなかに預言者がいたことを知らなければならなくなる。」(エゼキエル三三:三三))
この、「わたしがエホバであることを知らなければならなくなる」という言葉を、エゼキエルは何度も使っている。真の預言者は、エホバの御名によって語り、その預言は必ず成就しなければならないという。モーセは、「もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバがはなされなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない。」(申命記一八:二二 新世界訳)と記し、成就しない預言は神の言葉ではないと断言している。
それで、神が人類史に関与され、神御自身が行なわれる業、または預言者が建てられたのは、すべての者が、エホバが神であることを知るようにされるためであった。そのことは、古代、イスラエルの民をエジプトから脱出させた時、それを阻止しようとしたエジプトのファラオに対して十の災いを下されたが、それは脱出を阻止しようとするファラオに打撃を与えることが目的であったわけではない。その点については、神御自身が語られた言葉を、モーセは次のように記している。
「だが、実際には、この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち、あなたにわたしの力を見させるため、こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである。」(出エジプト九:一六、一七 新世界訳)と。これは、「わたしはある、わたしはあるという者」(出エジプト記三:一五)という御名をもたれる神御自身の言葉である。
 では、神が関わりをもたれた古代イスラエル国民における歴史にも、何らかの真の目的があったといえよう。事実、彼らが神を棄てたとき、その民も王朝も預言どおり滅ぼされた。イスラエル国民と関わることそのものが目的であったわけではない。真の目的は、神エホバが実在することを全地に宣明させるためであった!


  三 系図


また、ダビデ王朝が神の実在を証している三つ目の理由は、ダビデ家の系図である。ダビデは、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブヤコブの子ユダ、ユダの子ペレツ、ペレツの子ラム、ラムの子アミナダム、アミナダムの子ナフション、ナフションの子サルモン、サルモンの子ボアズ、ボアズの子オベデ、オベデの子エッサイを父として生まれ、アブラハムから数えて十四代目であったことである。そこに至るまでの系図も不思議に満ちている。マタイが記したアブラハムからイエス・キリストまでの家系には、四人の女性の名前が挙がっているが、その一人であるタマルについての記述は興味深い。ヤコブの子ユダは、十二部族の一つであるユダ族の始祖であるが、彼は父ヤコブによって「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。」(創世記四九:一〇)と祝福されていた。すなわちその子孫からイスラエルを支配する王たち、またひいては「神の王国」の永遠の王となるメシアが出ることが明らかにされていたのである。タマルは、最初はそのヤコブの長男エルの嫁であった。しかしエルは邪悪な人だったので、神は彼を死に撃たれた。やもめになったタマルは、当時の取り決めであった義兄弟結婚によって、エルの弟オナンの嫁になった。しかしオナンも自分の兄弟に子孫を残すことを拒否し、タマルとの間に子どもができないようにした。そこで神はエルもまた死に撃たれた。それで、父親ヤコブは三番目の息子をタマルに与えると約束していたが、その子はまだ幼かったので先延ばしになっており、そこでタマルは一計を案じた。彼女は遊女を装ってユダに近づき、ユダと関係をもって子どもを設けようとしたのである。
その時タマルは、後々の証拠品としてユダから印章つきの紐と輪、杖などをもらい受けていた。しかし後にユダは、娼婦だと思っていた女がタマルだと分かると非常に怒り、当時の律法によってタマルを「火で焼き殺せ」と命じた。けれど冷静になってみると、タマルは跡継ぎを得ようとして行なったことであり、タマルの行為のほうが義にかなっていると考え直して彼女を許した。タマルは難産の末にペレツとゼラハの双子を産んだ。そしてペレツの家系を通してメシアが出た。メシアへの系図は断たれたかに見えたが、このように奇想天外な方法で保たれていったのである。
しかしそれ以前にも興味深いことがあった。ダビデの曽祖父ボアズの母親の場合である。その名をラハブと言った。ラハブはカナンの地のエリコに住む娼婦であった。カナン人は不道徳で悪名高く、娼婦という職業を特に悪いとも思っていなかった。しかしラハブは、それまでイスラエル人に起きていた数多くの奇跡の話を聞いており、イスラエルの民の背後には確かに生きておられる神エホバが動いておられることを信じていた。それでラハブは、ヨシュアがエリコを攻略する前に二人の斥候を送り込んだ時、彼らをかくまって言った。「エリコが攻め取られるとき、自分と家族の命を守ってほしい」と。斥候たちは必ず守ることを約束して帰って行った。
まもなくヨシュアは、エリコを攻めて来た。神の指示は、祭司たちが神の箱を担ぎ、軍勢がその前後に続いて、角笛を吹き鳴らしながらエリコの都市の周りを一日七回、七日目には七回行進することだった。信仰がなければできないことだった。しかしヨシュアはこの御言葉に従った。すると、何とエリコの城壁は神の言葉どおり、七日目に確かに崩れたのである。しかし城壁の上にあったラハブの家は崩れず、家族は皆助けられた。そんなことがあってから、ラハブの家族はイスラエルの民と共に暮らすようになった。そしてラハブはユダ族のサルモンと結婚してボアズを産んだ。ボアズはダビデの曽祖父となったので、曾祖母ラハブもメシアの先祖に列なった。
また、そのボアズと結婚したのも異邦人モアブの女性ルツだった。ルツの最初の夫はユダ族のマフロンであったが、マフロンは、父親のエリメレクの死後ユダのベツレヘムが飢饉になったので、母親ナオミと共にモアブへ移住した。そこでマフロンは異邦人であったモアブ人の娘ルツと結婚し、彼の兄弟キルヨンもモアブ人の女性オルパと結婚して、兄弟は共に住んでいた。けれど、マフロンとキルヨンの二人が早死にしたので、二人の嫁はやもめになった。やがてナオミは、イスラエルの飢饉が終わったことを知り、故郷のベツレヘムに帰ることにした。ナオミは二人の嫁に言った。「モアブの自分の家に帰って幸せになりなさい」。最初は二人ともナオミと一緒に行くと言っていたが、ナオミがあまりにも熱心にすすめるので、オルパはモアブに帰って行った。しかしルツはナオミを離れず、自分の神もエホバである、どこまでもナオミと一緒に行くと言ってベツレヘムまでついて来た。ルツはナオミを愛しており、姑に忠実な嫁であった。
ベツレヘムに着いたナオミとルツは、ある富んだ人の畑の落穂拾いをしながら貧しく暮らしていた。ところが図らずもその畑の所有者がナオミの夫エリメレクの近親者でボアズという人であった。それを知ったナオミは、当時の取り決めであったレビレート婚(義兄弟結婚)を行なう権利が自分にあることを思い出し、年老いた自分の代わりにルツとボアズが結婚することを願って、そのように事を進めて行った。ボアズも神に忠節な人だったので、ナオミには自分よりもさらにレビレート婚の権利をもつ近親者がもう一人いることを知ると、その人がその権利を放棄するかどうかを確かめた上で、神の御心に適う方法でルツと結婚した。そのことは神に祝福され、ボアズはルツによってオベデの父親となり、オベデはダビデの祖父となった。
これら三人の女性に共通していたのは、恵まれない環境にあっても、神エホバに心から仕えるとき、たとえ異邦人であっても祝福されるということである。娼婦であれ、やもめであれ、神は心を調べる方なので差別されることはないということである。しかしその公正さについては、逆もまた真とされる。たとえ生まれながらにダビデ王の子孫であり、メシアの先祖に列なっていく人たちであっても、神を侮り、その掟を無視する者には、公正な懲罰が与えられた。王の場合で言えば、ダビデから始まった王朝には、その王朝が滅びるまで一九人の王が輩出するが、神に従って歩んだ王はわずかに五人のみであった。他の王たちは、神エホバではなく、偶像に身をかがめて神をそしり、神が遣わされた預言者たちを迫害し、殺した。そして民に対しては、おびただしい流血の罪を負ってきた。それで、神はついに王たちの悪行ゆえに世界強国であったバビロンを用いてユダ王国を滅ぼし、彼らをバビロンへ曳いて行かせた。それでも神は、人間に対して忠実であった。忠実な僕であったアブラハム、イサク、ヤコブダビデに与えられた約束、彼らの胤から永久の王メシアが到来することを守られたのである。西暦前七世紀の初め頃、王朝の滅亡後も、メシア誕生(西暦前二年)までの期間、彼らの血筋を守られた。アブラハムから数えて四三代目にメシアが誕生したのである。
神は、それら永い人類史を通して、人間を真に支配しているのは生きている神であることを知るようにされたのである。


  四 永遠の王国


一世紀の終わり、イエス・キリストは、「『わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。』」(黙示録二二:一六)と,使徒ヨハネに啓示された。イエス自ら、御自身がダビデのひこばえとして、天界から地上に降りてきたことを証されたのである。そうであれば、神はイエス・キリストを結び目として、天界と地上における二つの世界を結び合わされたのである。それは、天地の創造主である神にしか描けない壮大なシナリオであった。人間の想像力の限界を超えている。
それにしても神は、イエス・キリストをどのようにして地上に送られたのであろうか。いきなり、天から降って来られてもよかったと思うが、神は人間の目線に配慮されて、地上で誕生するようにされたのである。しかも地上で「エホバの王座」にあったダビデ王の子孫として。ルカの記述はそのことを明確にしている。また、イエスの母となったマリアの反応にも興味深いものがある。
「天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデの家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこのことばに戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』マリアは天使に言った。『どうしてそのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年を取っているが男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで天使は去って行った。」(ルカ一:二六―三八)
この預言には、イエス・キリストが誕生される目的と、それが人間的なものではなく、神の力によってもたらされることが明示されている。しかしマリアの反応は、最初は人間的なものだった。わたしたち普通の人間の考え方と同じだった。けれど、御使いが生まれる子どもは神の聖霊によるものであると告げたとき、神の力を知っていたマリアはそれを信じた。そしてこれらの予告は一言といえども違うことなく、すべてそのとおりになった。とくに興味深いのは、生まれて来る子どもに「父ダビデの王座」が与えられるという点である。マリアはダビデの血筋であったが、王統ではなかった。しかし夫となった貧しい大工のヨセフは、ダビデの王統の子孫であったから、イエスは養父ヨセフを通して、生まれながらに王となる法的権利を与えられたのである。このようにして神は御子イエスを地上に降ろされ、御自分が地上で行なおうとしておられる目的を遂行するために、物事を最初から着々と進行させておられたのである。
メシアとダビデ、一方は天において、他方は地上において、共に「エホバの王座」に着いたという点で重なり合っている。同時にそのことは、古代の預言者たちによっても何度も記されてきたことだった。紀元前八世紀にイザヤは、
「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
『その名は驚くべき指揮者、力ある神 
永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今も、そしてとこしえに立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書 九:五、六)
ダビデの王座」はイエスに与えられ、その王国にはもはや戦いはなく、永久の平和がある。ダビデも永久の王国が来ることを信じて、
「主に従う人は地を継ぎ
いつまでも、そこに住みつづける。」(詩編三七:二九)
と霊感によって記した。
また、使徒ヨハネは、イエス・キリストから直接啓示を受けて、
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。
 最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
 更にわたしは聖なる都、新しいエルサレムが、
夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、
神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録二一:一—四)
これが、永久に保たれる「神の王国」の光景である。地球は楽園に変えられる。それを目撃する人たちは、見てもなお「信じられない!」と叫ぶことであろう。しかし神は、この時のために、羊飼いの少年ダビデを選んで王とし、御子をその胤として地球へ送られたのであった。