■
2024/10/12 記 №33
■羊たちの追憶
想像してみてほしい。果てしなくつづく緑の大地。見上げれば青空にはぽっかりと雲が浮かび、地には花が咲き乱れている。そこはかつて旅人も恐れる大砂漠だった。サソリや蛇などが砂の中に身を潜めており、命を落とした旅人は少なくない。その砂漠平原が花園に変わったのだ。これは夢ではないか。そこに立つ人たちは、それが現実であると信じるには時間がかかる。
その平原の向こうには、美しい森が続いている。そこにはあの美しいレバノン杉が天を奪うかのように真っすぐに伸びていた。そしてその森の中をゆっくりと散策している動物たち。ライオンがいる。トラやチーター、熊もいる。そしてオオカミやジャッカルなども駆け回っている。やっぱりこれは夢に違いない、とまた目をこすってみる。森を抜けると再び広大な草原に出た。遠くに美しいシマウマの群れが見え、ヌーやゾウ、インパラ、キリンなどの草食動物たちがのどかに草を食んでいる。何と幸せな風景だろう。あの恐ろしいハイエナがひょこひょこと歩いており、コブラやニシキヘビでさえそれらの傍で横たわっている。もうあの凄惨な弱肉強食の場景は見られないのだ。やはり地球は新しくなったのだった。預言が実現したのだった。(イザヤ 11:6-9) あの肉食獣と草食獣の残虐な戦いは、「神の摂理」などではなかったのだ。愛らしく涼やかな目をしたインパラが、ライオンやトラに狙われて、その生肉が引き割かれ、命果てるまで貪り食われるという光景はなくなった。どうしてあれが神の摂理などであったろうか。美しくも優しい目をしたキリンの親子。子どものほうがライオンに追われる。母親は子どもを守ろうとするが、決して諦めないライオンがついに子どもの背中に飛び乗る。するともう一頭のライオンが足に噛みついて離さない。ライオンは連携プレーで必死にまといつく。そんなライオンに母キリンが蹴りを入れるが、ライオンの数は増すばかり。そして、ついに子どものキリンはライオンの牙の下に倒れる。そんな残虐な争いなど見たくなかった。象の赤ちゃんもライオンに襲われる。母親を呼ぶ悲しい鳴き声が森に響き渡るのを聞くこともつらかった。ウサギなどの小動物は肉食獣に襲われて逃げ惑う。その姿ほど哀れなものはなかった。彼らは地で襲われ、天からの猛禽にも狙われる。右に左のと紆余曲折しながら逃げ惑うが、最後には力尽きてしまう。時には親が留守にしている小さな巣穴の中まで追いかけて、生まれたばかりの子どもを捕まえ、むしゃむしゃ食べられることがある。急いで帰ってきた親は、成す術もなくその場景を遠くから見ている。親の悲しみが思われて胸が引き裂かれたものだ。どうしてこんな残酷なことが神の御意志であろうか。動物を造った方は、私たち人間よりもはるかに動物を愛しておられる。それがどうして罪深い人間である私たちですら受け入れ難いことを神が望んでおられるのか。何度もそう思ったものである。それは理に敵わないことだった。それに加えて、彼ら動物たちが素晴らしいのは、その生きた芸術品のように素晴らしい姿態ばかりではなかった。彼らには、体に埋め込まれている知恵である本能があった。例えば母性愛である。それは時には理性をもつ人間以上のものだった。子供が危険な場面に直面する時、彼らは躊躇なく自分の命を賭けて子どもを守ろうとする。相手がどんな猛獣であろうとも、勇敢に立ち向かっていく。小さな鳥でさえ、子供を奪った毒蛇に立ち向かって戦うのである。そんな素晴らしい習性が、進化によって培われてきたというなら、そのことが証明されなければならなかった。
裁かれなければならないのは人間である。神は人間のために動物を造られ、人間にその世話をするようにと命じられたのに、人間は世話をするどころか虐待し殺してしまった。木の葉一枚造れない人間が、生きた芸術品である動物たちを銃で撃ちまくったのである。そして、貴重な「種」を絶えさせてしまった。しかし天の言葉は記していた。
「神は谷に水の流れを送り込む。
水は山の間を流れる。
野原の全ての野獣はそれを飲む。
野生のロバは渇きを癒す。
空の鳥は水のほとりに巣を作り、
生い茂る葉の間で歌う。
神は階上の部屋から山々に水を注ぐ。
あなたの行ったことによって大地は喜ぶ。
神は、家畜のために草を、
人のために草木を生えさせ、
土地が食物を生み出すようにする。
心を喜びで満たすぶどう酒を、顔を輝かせる油を、
死にゆく人間を元気づけるパンを。
エホバの木々は潤う。
神が植えたシバノンの杉も。
そこに鳥が巣を作る。
コウノトリの家は寝ずの木々。
高い山々は山ヤギのすみか。
大岩はイワダヌキの避難所。
神は月を造って時を定めた。
太陽は沈む時をよく知っている。
あなたは闇を生じさせ、夜が訪れる。
すると、森林を野生動物が歩き廻る。
------
エホバ、あなたの偉業は何と多いのだろう。
あなたは知恵によって全てを造った。
地球はあなたが造ったもので満ちている。」(詩編 104: 10-24 新世界訳)
ちなみにこれを書いたのは、預言者でもあったダビデ王であり、西暦前1070年代の頃と思われる。自然界に対する深い洞察と共に、動物に対する愛で溢れている。そして新しい天地はこの預言どおりに、動物たちの安住の地となった。人間はどうなったろうか。
「悪を行う人のせいで腹を立ててはならない。
悪人をうらやんではならない。
彼らは草のようにすぐに枯れ、
若草のようにしおれてしまう。
-----
ほんのもう少しすれば悪人はいなくなる。
彼らがいた場所を見ても、もういない。
しかし、温厚な人は地上に住み続け、
豊な平和をこの上なく喜ぶ。」(詩編 37:1-11 新世界訳)
誰でも一度は、悪人のいない地を想像したことがあるかも知れない。もしそうなると、治安の心配をしなくていいので、世界中を自由に歩き廻ることができる。どんなに楽しいことか。そのような世界が実現したのだった。
そして荒地はなくなり、砂漠さえ花々が咲き乱れるところとなった。山には果物がたわわに実って、動物や小鳥たちが集い群れている。餌がなくて互いに奪い合うということも、里に下りてきて人間が作ったものを奪うということもなくなった。人間同士も食糧を巡って争うことはない。そして何よりも嬉しいことは、そこにはもう体が不自由な人達は一人もいないことである。
「荒れ野よ、荒地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野花の花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の栄光を見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
『雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を討ち、悪に報いる神が来られる。』
その時、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳は開く。
そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が歓び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうづくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに獅子はおらず
獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は戻って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザヤ 35:1-10 新共同訳)
人々は歓喜の声を上げて言う。
「神の言葉はほんとうだった! 神は実在者だったのだ。私たちの一人ひとりを本当に救ってくださったのだ!」と。それにしても戦争はどうなってしったのか? 核の脅威は本当になくなったのか?
「神は地上の全ての場所で戦いを終わらせる。
弓を折り、槍を砕き、
兵車を火で焼く。
『降伏し、私が神であることを知れ。
私は国々で称えられる。
地上で称えられる。』」(詩編 46:9、10 新世界訳)
戦争を終わらせられるのは神だけであった。人間にはその力がなかった。そればかりか、人間は核を作っておきながら、核のゴミすら処理することができなかったのである。困ってしまい、後先の考えもなく、ただ地中に埋めただけである。人間の知恵の限界であった。こんな大人がどうして幼子に、「おもちゃを片付けなさい」といえるだろうか。しかし神は、その愚かな子どもたちが残したやっかいな核のゴミさえ、地上から取り除いてくださった。そして地球は再び清められ、そこに義なる人たちが永久に住むことになっている。
「義なる者たちは地を所有し、
そこに永久に住むであろう。」(詩編 37:29 新世界訳)
「神は地の基をその定まった場所におかれました。
それは定めのない時に至るまで
まさに永久によろめかされることがありません。」(詩編 104:5 新世界訳)
それでは多くの人々が頼ったあの「神々」はどこへ行ってしまったのだろうか。それらの神は、信じていた人々に何をしてくれたのか? 木石の偶像の前で伏し拝み、「わたしはあなたに沢山のお金をお供えしました。ですからもっと良いことがありますように」と祈っていた人たちはどこへ消えてしまったのか? 物言わぬ偶像も、それを信じた人々も共に恥をかいた。まさしく神の言われたとおりだった。
「彫刻像を崇拝する人、
無価値な神々を誇る人は皆、
恥をかく。」(詩編 97:7 新世界訳)
それでは誰に頼るべきだったのだろうか。天の神は告げていた。
「権力者にも、人の子らにも頼ってはならない。
その人たちには救う力がない。
人は息絶えると地面に戻る。
まさにその日、その人の考えは消え失せる。
(詩編 146:3、4、新世界訳)
頼るべきは、同じ被造物である人間ではなく、わたしたちを造った方であった。私たちは、地球と人間をもっと宇宙的な視野で見なければならなかったのである。
「エホバが神であることを知れ。
わたしたちを造ったのは神であって、
わたしたち自身ではない。
わたしたちはその民、
その放牧地の羊である。」(詩編 100:3 新世界訳)
どんなに威張ってみても、宇宙から地球を眺めておられる神の目には、私たち人間は草原で草を食んでいる一匹の羊に過ぎない。羊は羊飼いに導かれなければ生きていけない。同じように人間も羊飼いが必要だった。それが御子イエス・キリストであった。神は自らを導くことができない人間に、イエス・キリストを通して歩むべき道を教えておられたのである。しかし多くの羊たちはそれを見分けなかった。偽りの羊飼いについて行ってしまった。しかしイエス・キリストご自身ははっきりと明言されていた。
「はっきり言っておきますが、私は羊が通る戸口です。私の振りをして来た人は皆、泥棒や強盗です。しかし、羊は彼らの言うことを聞きませんでした。私は戸口です。わたしを通って入るなら救われ、出入りして牧草地を見つけます。泥棒は、盗み、殺し、滅ぼすためにしか来ません。私は、羊が命を得て生き続けるために来ました。私は立派な羊飼いです。立派な羊飼いは羊のために命を投げうちます。
雇われ人は、羊飼いでも羊の所有者でもないので、オオカミが来るのを見ると、羊を見捨てて逃げます。(オオカミは羊を襲い、散らします。) 彼は雇われ人で羊のことを気に掛けないからです。私は立派な羊飼いで、自分の羊を知っており、私が父を知っているのと同じです。そして私は羊のために命を投げうちます。」(ヨハネ10:7-15 新世界訳)
羊を飼ったことのある人なら知っていることであるが、文字通りの羊は、本当に自分を気遣ってくれる羊飼いが誰であるかを見分ける。知らない羊飼い、本当に自分たちを守ってくれない偽羊飼いをよく知っており、その者には決してついて行かないのだ。羊すらそうであれば、理性をもつ人間がなぜ偽りの羊飼いを見分けられないのだろうか。利己心のためである。利己心がその人の心を鈍らせる。心が暗くなっている人達は真の義を見出すことができない。
「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身は明るいが、濁っていれば全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(ヨハネ 6:22、23 新共同訳)
そしてもう一つ、イエスはが警告されていたことがある。神と富とは決して両立しないという真理である。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ヨハネ 6:24 新共同訳)
それで、偶像崇拝を武器にして、羊たちを騙してお金を貪るのが、悪魔サタンの正体である。サタンの目的は、羊を保護することではなく、共に滅びへの道に引きずり込むことであった。悪魔の本質は残忍の一言に尽きたのである。
それで結局のところ人類は、たとえどんな生涯を終えたとしても、神が最初の人間夫婦に話された言葉から一ミリも逃れることはできなかったのである。
「あなたは額に汗してパンを食べ、ついには地面に返る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に返る。」(創世記 3:19 新世界訳)