2024/5/12

     天の言葉とバッタ

 

  目 次

 

  序文 『かぐや姫』について想うこと

 

   2022年1月3日

  序章 天上の知恵

  ・ガリレオの異端審問

 

   2022年3月25日

  騒乱1 世界の真の支配者は誰か

  ・争いの源

  ・「エデンの園」で起きたこと

  ・悪魔の正体

  ・二つの知恵

 

   2022年3月26日

  騒乱2 嘘の始まり

  ・嘘の社会

  ・「嘘」がもたらした「死」

 

   2022年3月28日

  騒乱3 世界の終わりなのか

  ・懲りないバッタ

 

   2022年4月2日

  騒乱4 体制の崩壊

  ・ベールがかけられた世界

  ・画期的な訓話ーー「山上の垂訓」

  ・神の価値観

 

   2022年4月4日

  騒乱5 原発の砲撃

  ・神の武器と核兵器

 

   2022年4月6日

  騒乱6 真の知恵は叫ぶ

  ・神の憤怒の日

  ・不条理な社会

   

   2022年4月10日

  騒乱7 地球は誰の者か

  ・神が授けた律法「ヨベル」

  ・人間の法律

 

   2022年4月16日

  騒乱8 人間はどこから来たのか

  ・宇宙開発の意味

  ・地球は滅びるか

  ・迫られる選択

  ・他の星にも命があるのか

  ・宇宙は誰のもの

  ・賢人の知恵は滅びる

 

   2022年4月25日

  騒乱9 神の摂理とは

   ・人間と動物の位置関係

   ・動物たちの精神世界

   ・「自然の掟」は誰がつくった

 

   2022年4月26日

  騒乱10 復活ーー神の公正

   ・イエス・キリストの復活と昇天

   ・復活と人類

   ・ラザロの復活

 

   2022年8月22日

  騒乱11 祈り求めて来た「御国」

   ・理想の国を求めて

   ・無力な偶像の神々

 

   2022年9月7日

  騒乱12 「黙示録」は啓かれる

   ・使徒ヨハネが見た幻

 

   2023年2月7日

  騒乱13 新・地球物語

   ・宇宙の法則

   ・新しい天地

   ・悪魔の爪痕

   ・公正が戻ってきた

   ・地球家族

 

   2023年2月20日

  終章 天の言葉は閉じられる

   ・希望

   ・クーリング・オフ

   ・人類史に現れたひとたち

 

  あとがき

 

  

 

  

 

 

 

   

 

 

2024/5/10

  天の言葉とバッタ

 

   序文

 

  『かぐや姫について想うこと』

 

  日本最古の物語である『かぐや姫』(竹取り物語)を読んでおられる方は多いと思う。それは奇想天外な物語でそれだけでも読者の心をわし掴みにする。しかし「聖書」を読んだ方なら、その構成がイエス・キリストが地上に来られ、そして昇天された描写とあまりにも類似していることに気づかれるのではないだろうか。

 「かぐや姫」が書かれたのは、9世紀末から10世紀の初め頃と言われており、作者は不詳である。このような奇抜な発想をした人はどんな人だったのか? 私にはすこぶる興味がある。原作者は「聖書」を読んでいたのではないだろうか? その点に触れてみたいと思うが、その前に、改めて少しだけ「かぐや姫」のあらすじを振り返っておきたい。

 昔、昔、竹取の貧しい翁夫婦がいた。ある時、翁は光る竹の中から可愛らしい女の子を見つけた。子供のいない翁夫婦は、それを“かぐや姫“と呼んで大切に育てる。その子は本当に美しく育ち、その評判は帝にまでも知れ渡る。そして帝を初めとして5人の高貴な男たちが彼女に求婚する。しかしかぐや姫は、彼らに決して実現できないような難題を突き付けて、断りつづける。帝に対しては、実は自分は地上の者ではなく、15夜には月に帰らなければならないと言う。そして自分を育ててくれた翁夫婦には、不死の薬を手渡して、満月の夜を悲しそうに待っている。そしてついにその時がきた。それでもかぐや姫を行かせまいとする帝は、屋敷中を兵士で固めて天に槍を放とうと待ち構えている。しかしその時がきてみると、兵士たちは一歩も動くこともできない。他方かぐや姫は優雅な羽衣をまとい、何事もなかったように静かに天に昇って行く。彼女は羽衣を纏ったその瞬間から人間の心をもたない天女になっているのだった。

 こうして、翁夫婦が愛したかぐや姫はあっけなく地上から天に帰って行った。生きる気力も失った翁夫婦は、かぐや姫からもらった不死の薬もいらなくなってそれを帝に上げる。帝もその薬を駿河の山に捨てて焼いてしまう。それからその山は、「不死の山」、つまり「富士山」と呼ばれるようになった。

 このようにこの物語は、天上界から地上の竹の中に降りてきた天女が、翁夫婦の元にしばし留まって人間として過ごし、翁夫婦を喜ばせ、再び天に戻って行くというストーリーである。他方「聖書」のなかのイエス・キリストも、地上の人間を救うという偉大な使命のもとに、聖霊で懐胎したマリアから生まれ、33年半の間人間として地上に生きられ、再び天に帰って行かれるストーリーである。他にも天上の力と地上の力が比較にもならないという描写が似通っている。かぐや姫の場合も、人間の武器は何の役にも立たなかったが、イエスは刑柱に架けられて亡くなられた後に復活されて、弟子たちの前に現れた時、襲撃を恐れて戸を閉め切って集まっていた弟子たちのなかにスッと入って来られたのだった。(ヨハネ20:18) この同じような描写が偶然の一致とも思えない。天界と地上の世界という異なる概念がなければ書けないのではないかと思う。

 しかし「聖書」が日本語に訳されたのが16世紀頃だとすると、「かぐや姫」の筆者は何時「聖書」の影響を受けるようになったのかと疑問は尽きない。いずれにしても私が「かぐや姫」に惹かれたのは、この作者が天上の世界と地上の世界という概念をしっかりともっていた点である。イエスはこのように語っておられる。「わたくしが地上のことを話ても信じないのであれば、天上のことを話したところでどうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには天に上った者は誰もいない。」(ヨハネによる福音書 3:31 新共同訳)

 このようなわけで、一般的に「かぐや姫」の評価は、反権力について描いているとの見方があるが、私にはそのようには読み取ることができない。反権力を描くために天から降りてくる設定が必要だとは思えない。イエスが言われるように、天の領域と地の領域の二つがあり、そこには厳然とした境界があり、人間はそれを超えることができない。「かぐや姫」はそのことを象徴的に描いているのではないかと私には思える。そしてその神秘性こそが、「かぐや姫」を永遠の名作にしているのでないだろうか。

 2024/5/6

  初めまして。津山千恵と申します。今度ブログを始めました。実はブログはこれで二度目です。一度目はもう十数年も前になりますが、すぐに止めました。記事に関係のない不道徳な写真や言葉等が多数投稿されてびっくり。とても我慢できなかったからです。なのにどうして再び? 自分自身にそう問いかけますが、その悪徳の間をかいくぐってでも、今のこの〝時〟に是非とも公開したいと思う原稿を書きあげたからです。この作品、『天の言葉とバッタ』は、コロナ禍のなかで書きました。未刊です。かなり長編で183,000字ありますので、毎日、少しづつ公開していきたいと思います。ちなみに私は物書きの端っこにいる者です。

 <執筆の動機>

 一世紀、イエス・キリストは、は今日の私たちが目撃している世界についてこのように預言されました。「あなた方は、夕方になると、『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には、『朝焼けで雲が出ているから、今日は冬のような雨が降る』と言います。空模様から天気を見分ける方法を知りながら、時代のしるしは見分けられないのです。」(マタイ16:2、3 新世界訳)

 今、私たちが神の時刻表のなかでどこに位置しているかを見分けるようにと言われたのでした。今日、地球は、各国間の戦争に加えて、疫病や食糧不足、自然災害など、地球規模の災難(ポリクライシス)の時代に入っています。この艱難は、これまで人類が経験しなかったことであり、もはや人間の力だけでは対処することも出来ない時代です。しかしイエスは、このような時代が来ること、そのことを見分けるようにと警告されていました。さらに、地球と人類の将来とその結末まで、全てのことを明らかにされました。預言者イザヤも、「私は、結末を初めから、まだ行われたいないことをずっと前から予告する。『私の決定はその通りになり、私は自分が望むことを全て行う』と言う。」(イザヤ46:10  新世界訳) と神の言葉を記しています。

 それで多くの人々が将来に漠然とした不安を抱き、どこに希望を見出してよいのか分からない今の時代にあって、もしかすると、「そうだ、聖書があったではないか。聖書は何と述べているのか?」と、最後の拠り所としての一冊の書である『聖書』のことを想いだされる方がいるなら、たった一人であってもその方のために私はこの作品を書こうと思いました。神はこう呼びかけておられるからです。「地の果てにいるすべての者よ、わたしのほうを向き、救われよ。わたしは神であり、ほかにはいない。」(イザヤ45:22 新世界訳)

 それゆえに、この作品には、個人的な見解はなく、聖句で埋め尽くされていますので、もしかすると読みづらいと思われるかも知れませんが、信じても信んじなくても、『聖書』は、記されていることは全て必ず実現するという視点で書かれていることを決して忘れないでください。そのために当然のことながら記されていることはあなたの見解、人間の理性を超えていますが、それはむしろ当然なことです。人間の知恵と天の知恵は天地ほども違い、そうでなければ神の言葉とは言えないからです。では、少しずつ紹介していきますので、お手持ちの『聖書』と照らし合わせながらお読み頂ければ幸いです。そして、地上の出来事がこんなにも絶望的な状態であっても、真の希望はある、神は地球と人類を見捨てておられないことを知って頂けたらと思います。共に生きていく真の意味を分かち合えますように!