2024/5/10
天の言葉とバッタ
序文
『かぐや姫について想うこと』
日本最古の物語である『かぐや姫』(竹取り物語)を読んでおられる方は多いと思う。それは奇想天外な物語でそれだけでも読者の心をわし掴みにする。しかし「聖書」を読んだ方なら、その構成がイエス・キリストが地上に来られ、そして昇天された描写とあまりにも類似していることに気づかれるのではないだろうか。
「かぐや姫」が書かれたのは、9世紀末から10世紀の初め頃と言われており、作者は不詳である。このような奇抜な発想をした人はどんな人だったのか? 私にはすこぶる興味がある。原作者は「聖書」を読んでいたのではないだろうか? その点に触れてみたいと思うが、その前に、改めて少しだけ「かぐや姫」のあらすじを振り返っておきたい。
昔、昔、竹取の貧しい翁夫婦がいた。ある時、翁は光る竹の中から可愛らしい女の子を見つけた。子供のいない翁夫婦は、それを“かぐや姫“と呼んで大切に育てる。その子は本当に美しく育ち、その評判は帝にまでも知れ渡る。そして帝を初めとして5人の高貴な男たちが彼女に求婚する。しかしかぐや姫は、彼らに決して実現できないような難題を突き付けて、断りつづける。帝に対しては、実は自分は地上の者ではなく、15夜には月に帰らなければならないと言う。そして自分を育ててくれた翁夫婦には、不死の薬を手渡して、満月の夜を悲しそうに待っている。そしてついにその時がきた。それでもかぐや姫を行かせまいとする帝は、屋敷中を兵士で固めて天に槍を放とうと待ち構えている。しかしその時がきてみると、兵士たちは一歩も動くこともできない。他方かぐや姫は優雅な羽衣をまとい、何事もなかったように静かに天に昇って行く。彼女は羽衣を纏ったその瞬間から人間の心をもたない天女になっているのだった。
こうして、翁夫婦が愛したかぐや姫はあっけなく地上から天に帰って行った。生きる気力も失った翁夫婦は、かぐや姫からもらった不死の薬もいらなくなってそれを帝に上げる。帝もその薬を駿河の山に捨てて焼いてしまう。それからその山は、「不死の山」、つまり「富士山」と呼ばれるようになった。
このようにこの物語は、天上界から地上の竹の中に降りてきた天女が、翁夫婦の元にしばし留まって人間として過ごし、翁夫婦を喜ばせ、再び天に戻って行くというストーリーである。他方「聖書」のなかのイエス・キリストも、地上の人間を救うという偉大な使命のもとに、聖霊で懐胎したマリアから生まれ、33年半の間人間として地上に生きられ、再び天に帰って行かれるストーリーである。他にも天上の力と地上の力が比較にもならないという描写が似通っている。かぐや姫の場合も、人間の武器は何の役にも立たなかったが、イエスは刑柱に架けられて亡くなられた後に復活されて、弟子たちの前に現れた時、襲撃を恐れて戸を閉め切って集まっていた弟子たちのなかにスッと入って来られたのだった。(ヨハネ20:18) この同じような描写が偶然の一致とも思えない。天界と地上の世界という異なる概念がなければ書けないのではないかと思う。
しかし「聖書」が日本語に訳されたのが16世紀頃だとすると、「かぐや姫」の筆者は何時「聖書」の影響を受けるようになったのかと疑問は尽きない。いずれにしても私が「かぐや姫」に惹かれたのは、この作者が天上の世界と地上の世界という概念をしっかりともっていた点である。イエスはこのように語っておられる。「わたくしが地上のことを話ても信じないのであれば、天上のことを話したところでどうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには天に上った者は誰もいない。」(ヨハネによる福音書 3:31 新共同訳)
このようなわけで、一般的に「かぐや姫」の評価は、反権力について描いているとの見方があるが、私にはそのようには読み取ることができない。反権力を描くために天から降りてくる設定が必要だとは思えない。イエスが言われるように、天の領域と地の領域の二つがあり、そこには厳然とした境界があり、人間はそれを超えることができない。「かぐや姫」はそのことを象徴的に描いているのではないかと私には思える。そしてその神秘性こそが、「かぐや姫」を永遠の名作にしているのでないだろうか。