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2024/08/22記 №20
■賢人の知恵は滅ぼされる
天の言葉は言う。
「その時、イエスは応えて言われた。『天地の主なる父よ、わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能の長けた者たちから隠し、それをみどり子たちに啓示されたからです。そうです、父よ、このようにされたのは、あなたのよみされるところとなったのです。すべてのものは父によってわたしに渡されており、父をほかにすれば、だれも子を充分には知らず、また、子と子がすすんで啓示するものをほかにすれば、だれも父を充分には知りません。』」(マタイ 11:25-27 新世界訳)
神は、興味深いことを記しておられる。天の知恵は、知能の長けた者たちには隠され、みどり子たちに啓示される、と。こんな書がほかにあるだろうか。一般的には、地上では知能の長けた者が理解し、みどり子たちは理解ができないのが普通である。これはどういう意味であろうか。イエスはこの意味を解き明かしてこのように言われた。「わたしを遣わした方である神が引き寄せてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(ヨハネ 6:44 新世界訳)
つまり、天の知恵を理解するには、生来の知能指数によるのではなく、それ以上のもの、神の聖なる力の働きが関係していると言われたのだった。では、どのような人に神の知恵は啓かれるのだろうか。そのヒントについてイエスは次のように語っておられる。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ マタイ6:22-23 新共同訳)
神の知恵が理解できるかどうかは、その人の心の状態にかかっている。ゆえに、それは成人か子どもか、教育を受けたか否かの問題ではなく、その人の心の状態に懸かっていることが分かる。その点、「聖書」は本当に不思議な書である。私も実際にそのような場面を何度も見てきた。友人は大学の教授であったが、彼は不思議なことを言った。「聖書」を読んでも何が書いてあるのかさっぱり解らないと。しかし他方で小学生の或る子どもは、その同じ文章を理解して喜んでいる。何が起きているのだろうか。「聖書」の理解は読む者の心の状態に懸かっている。信じても信じなくても「聖書」は一言一句、事実として書かれている。事実が前提の構文である。しかしそれを人間的な知識に基づいて、ここは真実であるがここは創作である、などと自分流に読み替えていくなら、決して筆者の文意を理解することはできない。それが「聖書」の特徴である。子どもはそのような作為的な読み方をしないのだ。その意味で「聖書」は、あたかもその人の心を明らかにするリトマス紙のようである。心を腑分けする。その点を使徒パウロは、預言者イザヤの言葉を引用して次のように説明している。
「『私は賢人たちの知恵を滅ぼし、知識人たちの知性を退ける』と書いてあります。賢人はどこにいますか。律法学者はどこにいますか。今の体制の弁論家はどこにいますか。神は世の知恵を愚かなものにしたのではないでしょうか。世の人々は、世の知恵によって神を知ることができませんでした。それで神は、世の人々にとって愚かに思える知らせを伝えさせて、信じる人たちを救うのが良い、と考えました。これはまさに神の知恵でした。」(コリント第一 1:19-21 新世界訳)
それで神の知恵と人間の知恵は並列しない。それでも神は人間を愛し、憐み、救うことをよしとされた。それで御子イエスを地上に派遣し、彼の言葉を通して神の実在を知り、神を信じる者を救済する手段を設けられたのだった。けれど、人間の知恵を誇りとする世の賢人たちは、イエスを単なる人間とみなし、彼が携えてきた音信を理解できないばかりか、それを愚かな戯言と嘲笑し、彼を殺してしまったのである。そして、人間の考案した科学こそ最高の知恵であると堅く信じてきたのだった。しかしその知恵はどこから来たのだろうか。コンピューターがどんなに優れモノであっても、ひとりでにできたわけではない。それを設計して作った頭脳がある。そうであれば、そのコンピューター以上の頭脳はどこから来たのだろうか? 小さな宇宙とまでいわれる素晴らしい頭脳が、誰の設計もなく造られた、偶然に出来たというのは理に敵った話だろうか。偶然に出来たという証拠を上げることができるのか。彼ら「賢人」たちは、一匹のイエバエの脳すら、大型のコンピューター以上の能力があることを知っているというのに。私は「賢人」たちに問いたい。どうしてこの大動脈を断ち切るような矛盾を犯してまでも創造論を退ける必要があるのかと。知人のある科学者は言った。「神を認めたらおしまいだ」と。しかし、自然界を通して、そこにある全ての材料をもって科学があるのだとしたら、創造主を認めても研究はいくらでもできるのではないか。むしろ究極の存在があってこそ、そこにたどり着くための努力に励みがあるのではないのかと思うのは、凡人の愚かさであろうか。
閑話休題。
いずれにしても、バッタが地球以外の星を地球化するというとんでもない野望を天の神はどのように見ておられるだろうか。
「エホバ、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは陶芸家です。
私たちは皆、あなたの手で造られたのです。」(イザヤ 64:8 新世界訳)
「民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
耳を植えた方に、聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。
人間に知識を与え、国々を諭す方に
論じることができないとでもいうのか。
主は知っておられる、人間の計らいを
それがいかに虚しいかを。」(詩編 94:8 新共同訳)
神は「賢人」たちに早く気付くようにと促されている。この事実を無視して何かを積み上げることはできない。この地につかの間、露のように朝降りて昼には消える人間は、ただの幻、ただの呼気でしかない。それでもバッタは素晴らしい脳を備えられていた。それはバッタが、夜空を見上げて、あの星を地球のようにしようというためのものではなかった。真理を求め、神にたどりつくためのものだったのである。