2024/5/13                                                                                                         NO4

2022年1月3日

 

序章 天上の知恵

 ■カルチャーショック

 人生で衝撃を受けたことが三度ある。一つは、小学三年生の時であり、村で一番高い

山である明神山に上った時のことである。山の頂上から見下ろした村の風景に驚いた。村で一番大きな建物である学校、そして郵便局や駐在所などがおもちゃのように小さく見えたことである。田んぼはモザイクのように並んでおり、その風景のなかに豆粒のように小さく農家の屋根が点在していた。その一枚の絵のなかを数台の車がおもちゃのように動いていく。たったそれだけのことであった。しかしその風景は、なぜか後々までも私の心のなかに残った。物も事柄も角度を変えて見るとき、対象物の全てはまるで別ものに見えることがあるということである。この無意識の学びは、後年、大人になってからも私の思考法に多大な影響を及ぼしたと思っている。

 もう一つの衝撃も同じ小学三年生の時のことでであった。ある夏の日、激しい雷鳴が轟き渡り、私は怖さに震えていたが、なぜかその日、私はたった一人で家にいた。その時突然私の脳裏に一つの計画が浮かんだ。それはかねてから気になっていた一つのことを実行することだった。その頃の我が家では、食事の前には、朝晩、仏壇におまいりしてからというのが慣わしだった。それで6人兄弟たちは、ろくに手も合わせずに競争のようにそれを済ましてから食卓に着く有様だった。それで私は常日頃から、自分が何に対して手を合わせているのかを知りたいと思っていたのである。そのチャンスがまさしく目の前にあった。私は躊躇することなく仏間に入って行った。そして仏壇にあった仏像や、飾り付けてあった金銀の刺繍をほどこした数枚の三角巾などを外してみた。さすがにドキドキして手が震えた。しかし思い切って仏壇の奥深い所に安置されていた幾つかの木や銅製の仏像を手に取った。見るとそれらはみな埃まみれであった。木像は小さな虫食いの穴でいっぱいだった。ショックだった。こんな物を拝んでいたのかと呆然とした。それ以後は、どうしても仏壇に手を合わせることができなくなった。これが二つ目の衝撃である。

 それから十数年経って、もう一つのカルチャーショックを経験した。それは高い山から下を見て驚くこととは真逆であった。今度はもっと高い宇宙から地球にいる自分を見たのである。それが “天の言葉“であった。

「あなたたちは知らないのか。

聞いていないのか。

最初から告げられていないのか。

地の土台が据えられた時から理解していないのか。

丸い地の上に住む方がいる。

地に住む者たちはバッタのようだ。

その方は天を薄織の布のように広げ、

天幕のように張って住まいとする。

高官たちを失脚させ、

地上の裁判人たちを無価値なものとする。

彼らはまともに植えられることも、蒔かれることもなく、

根付くこともなく、息を吹き掛けられて干からび、

藁のように風に運び去られる。

 

聖なる方はこう言う。

『あなたたちは私を誰になぞらえ、

誰と同等にみなそうというのか。

天を見上げてみなさい。

誰がこれらのものを創造したのか。

星の軍勢を数えあげて率いている者である。

その者は全ての星を名で呼ぶ。

膨大な活力と驚異的な力をもっているので、

一つとしてかける星はいない。ーー』」(イザヤ40:21-26  新世界訳)

 この聖句は、紀元前732年頃、預言者イザヤが聖なる力に導かれて記した言葉である。そこには地(原語では球体の意)を創造した方は、地上に住んでいる人類をバッタのようにご覧になっているとある。地上の高官も賢人も、あたかも存在しないかのようにである。彼らは地上に植えられたことも蒔かれたこともなく、まして根付いたこともない。地面をバッタのように跳びはねている虫である。天に住む方が一息吐くなら、その息によって干からびた虫のようになる微小な存在である。つまり、人間は自然界のなかにあっては、木の葉一枚、小さな花一輪のようである。自らを存在せしめたのではなく、ただ最初からそこに植えられていたのである。誰によって植えられたのかも知らない。

 そんなバッタが、広大無辺の空を見上げて言うのだ。

「私は賢い。地上でいちばん賢い。この地球を支配しているのは私だ。私の賢さに匹敵する者が他にいるだろうか。」と。しかし、実のところバッタが言うところの賢さとは、全て自然界から学んできたものであって、何一つ自らの力に依ったものではない。いいえ、バッタは自分がどこから来たのかさえ知らないのだ。ただつかの間の命を生きて、昆虫のように干からび、そして風に吹かれて飛び去って行くだけだ。どこへ消えて行くのかも知らないままに。ゆえに、バッタはその儚さ虚しさを嘆きはするが、髪の毛一本、白くも黒くもできない。そのようなバッタが、頭上に広がる無限の宇宙について何を語れるというのだ。

 感動が心を満たしていった。そして救われた。混沌としていたあらゆるものを一気に払拭してくれたのである。私の疑念をこんなにも明晰に分析してくれたものはほかになかった。ちなみに地球が球体であることを発見したのはピタゴラスであり、紀元前6世紀であった。しかしそれ以前にそのことを告げることができた預言者イザヤの知恵はどこからきたのだろうか。イザヤ自身は、その知恵は天の神であると記している。

 こうして私は、天界には地上の知恵を超えた知恵があることを知った。天の声が聞こえてくるように思えたのである。その声は聞こえた。

 

 バッタよ、もっと頭を挙げて宇宙を見るがよい。

 どんな理由があって天にいる者の知恵を蔑むのか。

 笑止千万! バッタよ、お前はそのことを認識しているのか。

 お前たち地の知恵が、天の知恵に比べることができるだろうか!

 地が造られた時、バッタよお前はどこにいたのか。

 わたしの無限の活力と、驚異的な力の源を見たことがあるのか。

 お前と私の力は、天地ほども違うということをバッタよ、

  お前は考えたことがあるのか!

 

 このようにして、天の言葉を知ることによって地球を眺めることができるようになったのである。三つ目のカルチャーショックであった。

 

 ■ガリレオの異端審問

 古代、人々は地球は平らに広がっていると思っていた。しかし紀元前六世紀にギリシャの哲学者・数学者のピタゴラスが、地球は球体であると唱えた。それから西暦1687年にニュートンは地球が空間に浮いていることを発見した。しかしモーセは、それよりも3000年以上も前の紀元前1473年頃に次のように記していた。「神は、北の空を何もない所に広げ、地球を空間に浮かせている。」(ヨブ記26:7  新世界訳)そして、ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのは、西暦1611年であった。それまでは、地球が宇宙の中心であり、太陽が東から西へと移動している、と考えられていた説を覆し、動いているのは地球である、と唱えたのだった。180度の転換である。その新説は、当時の神学者や教会指導者たちの理解を超えていた。それで彼らは、ガリレオの述べる説は、「聖書」の教えに反するとして、あの恐ろしい拷問に掛けたのであった。その結果、ガリレオは、地動説を無理に捨てさせられたうえで拘束された。その時彼は、さまざまな拷問にかけられたのであろう。しかし彼は真理を捨てなかった。あの有名な言葉、「それでも地球は回っている」と言ったからである。ガリレオの科学者魂は揺るがなかった。そして彼はこのようにも言っている。「聖書が間違うことはないが、聖書を解釈、説明する人が間違う」と。「聖書」自体には次のように記されていた。「太陽はーーー天の一方の果てから出ていき、他方の果てへと巡っていく。そり熱から遅れられるものは何もない。」(詩編19:5、6 新世界訳) ガリレオは、聖句を正しく読み取っていたのである。

正しく理解していなかったのは、当時の教会指導者たちのほうであった。当時、彼らは地球が宇宙の中心であると考えており、異端審問を行った彼らこそ、神に対して重大な罪を犯していたのだった。

 そして1642年、拘束されていたガリレオは、偉大な発見を葬りさられたまま、77歳の生涯を閉じた。反対に、傲慢であったがゆえに、神の真理を否定する結果になった教会の指導者たちは、何のお咎めもなく永い歳月が流れていった。そして1992年にヨハネ・パウロ二世は、この異端審問を再検討し、教会側がガリレオに対して行った行為が間違っていたことをようやく公認したのである。ガリレオが亡くなってから350年後のことであった。

 これらのことは何を物語っているだろうか。「聖書」の言葉は最初から真理であり、神の知恵によって書かれたものであるということである。「聖書」は、紀元前1513年にモーセによって「創世記」が書き始められて以来、西暦98年に使徒ヨハネが、「啓示」

(黙示録)や「ヨハネ第一」「ヨハネ第二」を書き終えるまでの1600年間、40人の筆者によって書き継いでこられたが、その言葉が訂正されたり、書き直されたということは一言もない。真の筆者は神ご自身だからである。「聖書」は述べている。「聖書全体は神の聖なる力によって書かれたもので、教え、戒め、矯正し、正しいことに基づいて指導するのに役立ちます。」(テモテ第二 3:16 新世界訳)  またこのようにも記されている。「聖書の予言はどれも個人的な解釈に基づいてはいません。どの預言も人間の考えによって語られたものではありません。人が聖なる力に導かれて神からの言葉を語ったのです。」(ペテロ第二  1:21、22 新世界訳)

  つまり、「聖書」は確かに人によって書かれたものの、それは人間の力ではなく、神の聖なる力に導かれて書かれたものであると明記されている。信じても信じなくても、それが聖書そのものが明記していることなので、その前提で読まなければならない。すなわち「聖書」は人の手によって記されたとしても、その著者は創造主神エホバである。それが一般の書物と決定的に異なる点である。この言葉を素直に受け止めるなら、いったい神は地球と人間に対して、どのようなお考えをおもちなのか、という点で実に興味深い書物と言える。その内容をこれから述べていきたいと思うが、多くの場合、人類はそもそもそのことを理解できず、本当に創造主である神を信じてきた人は地上に生きた人間全体のうちのほんのわずかな人たちであったといえよう。それはガリレオの異端審問が象徴しているように、宗教的な迫害史が示しているとおりである。

 それでこれから、天の言葉に照らして、バッタである人類史の騒乱を神がどのようにご覧になっているかを読んでいきたいと思う。そこにはあまりにも大きな知恵の違いがある。天の知恵とバッタの知恵である。イエスが言われたとおりである。

 「上から来る者は他のすべの者の上にある。

 地からの者は地からであって、地の事柄を話す。

 天から来る者は他のすべての者の上にある。」(ヨハネ3:31  新世界訳)

 それで地球という星に生きる人間の知恵には、物理的に言って知恵の限界がある。しかし天の言葉には限界がない。その天の言葉は、この危機的な21世紀を生きる地上の人間に対して何を告げておられるのだろうか。時代のしるしを見分けるようにと言われたイエスの言葉にはどんな意味があるのだろうか。私たちは今、神の時刻表のなかでどこに位置しているのかを読み解いていきたいと思う。天の言葉は言う。

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、

人々はむなしく声を上げるのか。」(詩編  2:1  新共同訳)