2024/6/8                                                                                                              NO 6

 

 ■悪魔の正体

 それは西暦29年のことであった。イエスは紀元前500年代の終わり頃、「ダニエル書」の9章25節に預言されていたとおり、バプテスマを受けられてメシアとして現れた。その直後のことが次のように記されている。

 「さて、イエスは聖なる力によって荒野のあちこちへ導かれて、40日になり、悪魔か  ら誘惑を受けた。その日々、何も食べなかったので、その期間が終わった時、空腹を感じた。すると悪魔がイエスに言った。『神の子ならこの石にパンになるように命じなさい。しかしイエスは言われた。「人はパンだけで生きるのではない」と書いてあります。それで悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、瞬く間に世界の全ての王国を見せた。そして言った。「」この全ての栄光と権威を上げましょう。それは私に渡されており、与えたい者に与えることができます。それでわたしを崇拝するなら、全てはあなたのものになります。」イエスは答えた。「あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり、この方だけに神聖な奉仕をしなければならない」と書いてあります。』。

 次いで悪魔は、イエスエルサレムに連れて行き、神殿の最も高い所に立たせて言った。『神の子ならここから飛び降りなさい。こう書いてあります。「神はあなたのために天使たちに命令を出し、あなたを守らせる。そして、「天使たちは、あなたを手に乗せて運び、あなたが石に足をぶっつけないようにする。」イエスは答えた。「神エホバを試してはならない」と言われています。それで悪魔は誘惑を終え、別の都合の良い時までイエスから離れた。』」。(ルカ4:1-13 新世界訳)

 神に背いた悪魔サタンの目的は、創造主であるエホバを差し置いて、被造物である自分が神のようになることであったから、神の御子は邪魔な存在であった。それで御子を取り除くために世界の王国を見せて、わたしを崇拝するなら、この全てを上げようと言ったのである。実は、神はある一つの目的の下に、悪魔がこの世界を支配することを一時的に許されていたのである。(ヨブ記一章) それで悪魔はイエスに世の王国の全てを見せることができたのである。

 ここで、悪魔の特質が見えてくる。悪魔は、神の御子に自分を崇拝させることができるなら、世界の全てを差し出してもかまわないと言ったことである。つまり悪魔は己の欲望を物質的な力で遂げようとしていたのであり、それが悪魔の本質であった。物質至上主義は悪魔の価値観であった。彼はその価値観を基にしてこの世界を構築し、悪魔の行動原理とし、人間もこの価値観のもとに育てられてきた。戦争はその最たるものである。物質的な欲望を遂げるためには他国の領土を奪っても構わないという考え方である。

 翻って今日、ウクライナに侵攻を始めたロシアの一人の権力者のことを考えると、彼の行動原理は、まさしく悪魔と同一のものである。違うところがあるとすれば、サタンの場合は、物質の全てを差し出すことによってその欲望を遂げようとしたが、彼の場合は、その反対に物質を奪い取ることによって肉の欲望を遂げようとしている点である。どちらも徹頭徹尾、物質的なものにこそ価値がある、という行動原理である。そのことがロシアの戦争というよりも、一権力者による戦争である、と言わしめているゆえんではないだろうか。このようにして彼は悪魔の業を行うことによって悪魔の力を得ているのである。背後にその力があればこそ、一人対世界の全ての人たち77億人を敵にしても戦う力を得ている。そうでなければ絶大な権力を持ち、加えて核のボタンを握っていたとしても、どうしてたった一人の老人が世界を相手に戦うことなどできるだろうか。その意味では、かつてヒットラーが異様なまでの力を持って世界を支配したのも、その背後に同じ悪魔サタンの力が働いていたとしか言いようがない。

 

 では、悪魔の力が働くなら、どんなことが起きるのだろうか。一例として、聖書に記されている記録を見てみよう。一世紀、それはゲラサ地方(ガリラヤ湖の東方)でのことだった。ここでイエスは邪悪な天使にとり憑かれて苦しんでいた男性達に出会われた。(ルカ8:26-39) この男たちは、邪悪な天使によって家から連れ出されて辺鄙な墓場に住み着いていた。服を着たことがなく、力が強くて狂暴であったので、体は鎖で縛りつけられ、足枷もされていた。しかし彼らはすぐにそれらのものを引きちぎってしまい、昼も夜も絶えず叫び声を上げて、自らの体を石で傷つけているのだった。ところがある時、イエスが近づいて行かれた。すると男たちはイエスの下に走って来て、ひれ伏して言った。「至高の神の子イエス、何をしに来たのですか。お願いします。私を罰しないでください」。イエスは邪悪な天使にその男たちから出てくるようにと命じられたからである。そしてイエスは言われた。「あなたの名前は何ですか」。すると男たちは言った。「レギオンです。私たちは大勢いるからです」。大勢の邪悪な天使たちが男たちの体の中に入りこんでいたのである。そこでイエスはレギオンに、近く山で草を食べていた豚2千頭のなかに入るようにと命じられたので、豚の群れは突進して崖から海に落ちて死んだ。他方、邪悪な天使を追い出してもらった男たちはすっかり正気に戻って服を着て座っていた。これらのことを見たり聞いたりした人たちは、イエスを恐れてこの地域から出て行ってくれるようにと懇願したのだった。

 この記述は、邪悪な天使がどのような力を持っているかをよく示している。このように悪魔サタンは、人間を心身共に虜にして自由に動かし、苦しめることができる。そのようにして人を用いて世界を動かすこともできる。それでロシアの一人の権力者も、気が狂ったのでも理性を失ったのでもなく、悪魔サタンの力に動かされているに過ぎない。それでこの世の支配者となっている悪魔サタンは、この体制で起きているさまざまな悪事の背後にあって人々を操っている。ウクライナの戦地で起きていることを見ればそのことは否定できないのではないだろうか。ロシア軍が通過した後の焦土と化した街のあちこちに見られる光景は、確かに悪魔の業としか言いようがないだろう。遺体がゴミのようにまき散らされ、男も女も、子供も高齢者も区別はない。まるでただの動物のように虐殺されている。それは肉体的な苦痛のみではない。悪魔の業は残忍である。手足を縛られてから銃殺された人、肢体がバラバラに切断された人もいれば、母親は子供の目の前で強姦され、そして殺された人もいるという。どうして理性をもつ普通の人間にこれほどの残虐が行えるだろうか。墓場の男たちのように、一時的にしても、加害者たちの心と体に悪魔が入り、悪魔の業が行われているのである。

 しかしこのようなことは、過去の幾つもの戦争でも同じように行われてきたことだった。私はかつてそのような体験を自らの体で行ってきた人たちに直接取材し、聞いたことがある。それは第二次世界大戦中のことである。日本の軍隊は中国で戦っていた。ある時一つの部隊が食料を奪うために小さな村々を襲撃しながら移動していた。食料だけでなく、その村に若い女性がいるなら、まるで動物のように家族たちのいる目の前で犯し続け、そして殺していったのだという。年老いた母親は、娘の代わりに自分の体を差し出すから許してくれと泣き叫んだ。しかしそんな声に耳を傾ける者はなく、人間の心を無くした男たちはやりたい放題のことをやり、ある部隊長は、犯した若い女性を殺さずに連れ歩いて慰め者にし、そして邪魔になった時には殺して食べたという。人間は理性をもつ存在であるがゆえに、それを失った時は人間ではなくなり、正気を失うようだ。戦争はそれをさせる。狂気を狂気とも思わなくなる。私はそれらの話を、電車が通るたびに揺れ動く上野近くの薄暗いレストランで聞いた。思考力を失い、何度も吐き気に襲われながら耐えていた。

 レストランを出て、雑踏の中に流れ込むと、ついに私は一本の街路樹の下に座り込んでしまった。そして吐いた。戦争は人を狂わせる。加害者も被害者の一人だ。独りその深い闇を心に抱きながら、何事もなかったかのように生きていなければならない人たちがこの雑踏のなかにどれほどいることか! 良い父親、夫、息子としての仮面をかぶりつながら。心的外傷を抱えて人生を台無しにされた人たち。そんな戦争を誰がしたのか。それが悪魔サタンの正体である。

 それで、ロシアとウクライナの戦争が、一人の権力者の心のなかで生まれた欲望から始まったのであれば、その欲望が満たされることは決してない。天の言葉は言う。

 「冷静さを保ち、油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がライオンのように歩きまわって[だれかを]貪り食おうとしています。」(ペテロ第一 5:8  新世界訳)  

  ライオンはいつまでも満腹ではない。空腹になる。そして狩りに出かける。欲望も同じようである。それが満たされることはなく、あらゆる悪事の機会を伺って歩き廻っている。誰かを欺き貪り食うために。