2024/6/9                                                                                                         NO 7 

 

 ■二つの知恵

 悪魔サタンが支配するこの世界には、異なる二つの知恵がある。一つは天上の知恵であり、もう一つは地球という星に生まれ、その地で育ってきた人間の知恵である。知恵の定義については、「物事を判断し、計画、処理する心の働き」(新選国語 小学館) とある。換言すれば、その人が持っている知識を正しく使う心の働きである。それでどんなに知識があっても、それを悪いことがらのために使うなら、それはただの悪知恵となり、何ら益するものとはならない。知識と知恵は不即不離の関係にある。それで天の言葉は言う。

 「知恵はエホバへの畏れから始まる。

  最も聖なる方についての知識が理解を与える。」(格言9:10   新世界訳)

 では、何故エホバへの畏れが知恵の始まりとなるのだろうか。一般に人間の知恵の源は自然界にある。自然界を見て、聞いて、研究し、発見してその知識を重ねてきたものが知識となった。しかしその自然界は、あらゆる生物も含めて、人間が地球に誕生する前からそこに存在していたのであって、人間は木の葉一枚造ってはいない。そのことを正しく認識するなら、自然界に対する畏敬の念が生まれ、畏敬の念があるところには何らかの存在者がある。そのように考えるのは理論的なことである。そんな自然界がまるでびっくり箱を開けたかのように、何の理由もなく、突然そこに存在するようになったと考えるなら、それは極めて非論理的なことである。そして知恵があるところにはその背後に理知がある。理知が何もないところに生まれることはないので、その背後には大いなる力があると考えるのは論理である。結論として天の言葉はこのように述べている。

 「神について知り得る事柄は彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神聖は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。したがって彼らには弁解の余地はありません。なぜなら、神を知りながら、神をあがめることも、感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えたのです。」(ローマ書 19-23 新共同訳)

 自然界、造られたものを通して神の存在を知るようにと。その神は、人間の知恵では説明できない自然界のこと、地球そのもののこと、宇宙のこと、命のこと、それらが造られた目的や意味について「聖書」を通して説明している。神に代わってそれらの預言について記しているのは、預言者たちやイエス・キリストである。その意味で「聖書」はあくまでも、地球に置かれている疑問いっぱいの人間のために、神の視点で答えるために書かれたものである。自然界を見て、その説明を聞いて、神の存在を知るようにと。それで私たち人間が神の実在を知る方法は、自然界とそれについて説明している「聖書」の二つである。

 そこには人間の目には奇跡と思える事柄が多くある。そこで読者のあなたが、人間の知恵で理解できない事柄に対して、この部分は創作だ、これはあるだろうなどと勝手な解釈で読むなら、それは全くナンセンスで「聖書」を読む意味はなくなる。なぜなら、あなたが信じても信じなくても、神の言葉は人間の理解に関係なく、神のご意思によって必ず実現するからである。それは簡単に反故にされるような人間の約束ではなく、不変の神の約束であるから。そこにこそ天と地の知恵の違いがあるのだ。

 それでは、具体的に天と地の二つの知恵の相違を考察してみよう。信じても信じなくても、天上の知恵は人間の理性を超えている。神はその知恵を預言者たちを用いて聖書に記させた。その意味で天の知恵は一方的に天から降ってきたものであり、それに対して地上の知恵は、あくまでも人間がこの地上で編み出したものである。象徴的で究極的な一つの例を挙げれば、それは命である。先にも「エデンの園」で起きた事柄を述べてきたように、天の知恵によれば、最初の人間夫婦は永遠の命をもっていた。この記述も人間の知恵によればあり得ないことである。「死」は決して避けられない宿命であると考えているからだ。なぜなら人間は、そのように造られている人間の体の設計を変えることができないことを知っており、自らの知恵の限界を知っているからだ。しかし人間の創造主にはそれ以上のことができる。永遠に生きる遺伝子が損なわれたのであれば、それを回復させる力がある。天の知恵と地の知恵の決定的な相違はここにある。したがって、この二つの知恵の間には物理的に近づくことも交わることもできない。それでイエスはこのように言われたことがある。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と。(ヨハネ7:17  新共同訳)

 ゆえに、二つの知恵の間には、文字通り天地ほどの違いがある。